harustory’s diary

日々の思索、その物語

生きる事を恐れずに

  f:id:haruharu1103:20180227161900j:plain重苦しい、澱んだ空気が部屋に充満していた。僕はベッドの傍らに何か光明を模索せんと、幾つかの本をちらかしては乱読していた。哲学の本二冊、ヘッセの随想、神学、精神医学、心理学、小説…。しかし、それらはみな退屈であった。僕の心を揺り動かすことはなかった。


 そんな折、沢山の声が僕のもとに届けられた。それは綺麗な光彩のようにみえた。望む場所だった。      

  余裕がない時もあった。この拍動が強まっていく苦しさも覚えた。

 しかし日が経つにつれ、僕は声音を増し、届けられるその声達をきくごとに、自分の煩悶が切望に変容していっていることに気が付くこととなった。
  僕は安易な気持から「煩悶」などと形容しているのではない。それほどまでに、僕の精神は疲弊し限界に達していた。朝になると身体が動かなるときもあった。気力は、意欲という幹が寸断されたように屹立するに能わなかった。天井の白壁のただ一点をのみ凝視しては、仰臥する倦怠と虚無の日々もあった。

  ブーブーとバイブレーションが鳴る。その振動は僕を理性的存在へと戻す。そこに書き連ねられた想いの数々は、ベッドの脇に幾つも侍らしていた歴々の書の言葉より遥かに僕を感動させるものであった。
 僕は、泣いた。涙が瞬間的に眼球に溜まっていき、ぽろぽろと落涙する自分を認めた。そうして、両手で携帯を掴みそれを額にもっていき、祈るようにしながら相手を思い浮かべ、「この人達の為にこそ生きたい。」、そう願った。壊れるものを壊れないようにすることでも、欠如を満たすことでもなく、ただこの生徒達の為に、と。
 
 僕は「世界」という言葉を多用する。それは秩序整然としたマクロコスモスとしての外的な世界と、自己内部に於いて内面化されたミクロコスモス(小宇宙)としての両方の意味が含意されている。 

  僕の小宇宙は混沌そのものであった。硬く、固着した憂鬱ばかりが僕を支配し、人間に備わる全的な機能は不能していた。

  しかし、それはやがて秩序を回復させていく。柔らかな世界へと僕を導いていく。導き手は、他者である。彼等/彼女達の想いが、言葉が、僕を突き動かし、"理性、感情、意思、使命"、そういった、本来僕の小宇宙を形成していた営為を復活せしめた。ラスコーリニコフの"絶望と復活"のモチーフである。

 僕はこれら優しさを"愛"と呼びたい。

  僕にとって愛はあまりに崇高であり、絶望の陥穽から這い上がることの出来る唯一の啓示であると考える。愛は全てである。キリスト教では「アガペー」を重んじるが、正に愛は世界を救う。この言葉を陳腐だと思うであろうか。しかし、これは真理だと僕は馬鹿みたいに信じ続ける。「愛は世界を救う。」マクロコスモスとしての世界も、ミクロコスモスとしての個人的世界も。

 僕はこれからも己の精神に苛まれるであろう。この予感はもう嫌だし、恐い。克己などと軽々に言うことはできない。

  ただ、ここで一つ宣言できるものがある。それは、僕は、他者の為に生きた偉人達のように、ベートーヴェンのように、そんな風に生きたい!そんな勇気をこの胸に抱懐したい!f:id:haruharu1103:20180227161814j:plain