harustory’s diary

日々の思索、その物語

あんぱん

「渡したいものがあるの。」

  そう言われたとき、それが何であるのかなど無論彼は想像すること能わなかった。しかし、告げられたその言葉にのせられた情調だけは、彼に、その言葉が一切の不純さなどなく、玲瓏たる素朴さだけが存していることを感じせしめた。 

  「はいっ!」楚々とした、少しいじらしげな挙措のなか、彼女が渡したものは一個のあんぱんであった。

  彼は以前、『CLANNAD』の「あんぱん」の話を彼女にきかせたことがあった。その時、彼女がどう感じたのかわからなかったが、後に、彼女からあんぱんを食べたことや、こしあんとつぶあんはどっちが好きかといった問いかけがなされる度に、彼は自分の語った好きなエピソードを、どの様な形であれ少なからず彼女も共有してくれたのだと感じては嬉しさを禁じ得なかった。だから、あんぱんをくれたとき、彼は非常な感激を覚えた。彼は、その一個のあんぱんが彼と彼女を繋ぐ何かとても大切なものの象徴であるような気がした。

  ある夜更け、彼は打ち拉がれた思い、自責と後悔の無念さのなかで眠れずにいた。暗順応によって部屋の仔細は認識され、彼は部屋の一隅をただただみつめていた。うっすらと青白い影のように縁取られた空間が、異界への入り口のようにみえて、何だか滑稽ですらあった。
  その時、びゅうと窓を叩きつける強風が部屋のなかにもれてきた。彼は窓に隙間があいていることに気が付かないでいたのだ。と、同時に物が落ちる音を彼は認めた。暗闇に慣れた目は窓を閉め、ついでに空を仰ぎ観た。鮮やかに光る星が三つ並んでいた。その夜空の点綴する光の恩恵が彼に落ちた対象を安全に確認させてくれた。それは、朝食べようと思って机の端に置いておいた彼女からもらったあんぱんであった。
  彼は、「夜空に輝く星達を観ながらあんぱんを食べたい」、そんな感傷的な衝動に駆られた。

  あんぱんを豪快に頬張る。しっとりと優しい甘さが口のなかに広がる。それはあんぱんによってのみ知覚された働きではないとわかっていた。 


「あ、こしあんだ。」思わず声がもれた。