harustory’s diary

日々の思索、その物語

アラクニド

ガンガンコミックスJOKERスクウェア・エニックス発刊『アラクニド』という漫画がある。一巻しか読んでいないので、内容についてはわからないが、興味深い設定があった。

それは作品のなかで、「先天性集中力過剰」と呼ばれる精神疾患


主人公はこの病気を患っている少女。学校は休みがちでクラスメートからは彼女の病に起因する行動の為に虐められ、家庭は母親が鬱病により自殺し、父親もおらず、ほぼ唯一の親類である叔父の被後見人。庇護下にあるその叔父による虐待に苦しんでいる。

そんなところから物語は始まる。

さて、この「先天性集中力過剰」は


「脳の一部になんらかの欠損があり前頭葉の持つ実行機能が制御できず一つの事象に対する認知・判断・選択・精査が過度に行われた結果一時的に身動きがとれなくなる。日常生活には大きな障害となるが…制御できれば大きな力となる」


と説明されている。実際に存在する疾患ではないが、これは強迫性障害の機序と似ている。

僕にも似たようなことが生起する。それは「とらわれ状態」。生産的行為にも非生産的行為にもとらわれる。観念の上でも+と−の考えにとらわれるネガティブ時は、往々にしてネガティブスパイラルが生じるが良いこともある。例えば勉強や読書。ただひたすらに、正にとらわれたように集中してしまう。


没頭体験は誰にもある。強迫性障害などと大仰な病名だが、そもそもこの機制は誰しもが感じたり、体験したりするようなものに対する過剰な反応だったりする。この「過剰さ」が厄介なだけで、奥底にある本質みたいなのは何も変わらない。

僕のひたすらの没頭現象も、万人が共有するものでありながら、その多寡の部分で異なっているだけなのだ。

三島由紀夫『金閣寺』に於ける美の観念

美を愛し、美を憧憬し続けた三島由紀夫。1970年11月、池袋東武百貨店にて「三島由紀夫展」が開催された。誰もがこれからの彼の活躍を疑わなかった。しかし、同月の25日、『豊饒の海第4部-「天人五衰」最終原稿を新潮社に渡した三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へとおもむき、自衛隊の決起を促した果てに、東部方面総監室で割腹自殺を遂げた。彰武院文鑑公威居士の戒名を受けた三島由紀夫は、存命していればノーベル文学賞は間違いない人物であろうはずであった。

その偉大なる三島由紀夫の代表作の一つ『金閣寺』について、作中の「美」という観念に焦点を絞り所感を述べていく。


  三島由紀夫。彼は自らに迫ってくる「美の崩壊」を極度に恐れていたであろう。恐怖し、周章狼狽していたであろう。彼は、己の内に絶対的なもの、それはつまり理想的な美の形象を見出していた。三島は肉体改造を決心した。それは迫りくる美の崩壊という魔手への人間的な最大限の抵抗であり、形而上学存在への精一杯の反駁であった。

  しかるに、絶対的な存在たる美は彼にとって決して手の届かないものであった。永遠に憧憬の対象であった。それが三島をして『金閣寺』の執筆へと向かわしめた。金閣放火は表層的機縁に過ぎない。

  この作品は「金閣寺」という三島(主人公の青年、溝口。これは三島由紀夫自身の投影である。小林秀雄は『金閣寺』を小説に非ず、コンフェッションであると述べたというが慧眼であろう。)にとっての「絶対的な美」に対する彼の倒錯した愛情が示されている。

  なにゆえに三島は金閣寺を破壊しなければならぬと思ったであろうか。その激烈なる破壊衝動の源泉はどこに存しているであろうか。何故、三島は崇拝の対象であった金閣寺を嫌悪し、憎み、呪詛し、醜怪な化物の如くに忌避し、しかるに執着し、懸想し、そして殺意を催したのか。それは、三島にとって金閣の美は"絶対に掴むことが出来ないもの"だったからである。

  自分とは凡そ懸隔した金閣の圧倒的美に畏敬の念を抱懐しつつも、その隔絶された不可侵な美が自分とは無縁に存在していることが三島には信じられなかった。ありえなかった。苦痛で、許せなかった。この地獄的煩悶と呻吟の果てに、彼は、こう、決心した。


金閣を焼かねばならぬ」


  金閣を破壊すれば、美は絶対のもの、永遠なるものではなくなり、三島にとって自分の内に引き込むことが可能なものへと変容する。だからこそ、彼は空襲での破壊を願い、それが無理と知るや破壊衝動が芽生えた。

 

  僕は感動した!落涙を禁じ得なかった!何故というに、美が崩壊していくことを耐えがたき懊悩と感ずるのは、自らの内に理想としての美というものが確固として存在しているからである‼︎

  これは偶像崇拝。そして、その偶像をただ崇めるのみならず、自分もその一部たらんと心底渇望しながら、もはや自分がそこから不可避的に、仮借なき自然摂理の力によって逕庭してしまったと確信するとき(そう、確信である!)己の奥底で何かが瓦解し破壊的衝動が生まれる自分自身を意識するのだ。

『大つごもり』樋口一葉-罪の意識-

「おゝ堪えがたと竈の前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木ほどの事も大台にして叱りとばさるゝ婢女(た)の身つらや」

 かかる引用からも感じられるように、『大つごもり』を、厳しい境涯を甘受している下女の物語」という主題の下、私小説的に読む事に無理はない。実際、樋口一葉は17歳の頃の父の死をきっかけに生活苦を余儀なくされている。

  窮乏生活で艱難辛苦した一葉の自叙伝的性格の点出は、「女性の哀れさ」をテーマとし、社会小説的なモチーフを抒情豊かに扱う樋口一葉の作家的思想と逕庭しない。『大つごもり』もまた、お峯の女中としての境遇を当時の社会的世相との関連に於いて考察する評は散見されており、結句それは一つの強固な論理性を形成しているが、本稿では、作品の基調低音を成す貧困の問題はあくまで副次的に取り上げ、よりお峯(主人公)の内面に肉迫していこうと思う。

 お峯の科白中の白眉な場面を、"彼女が罪の意識に呻吟しながらも金銭を拝借する"ところにみる。かかる表白以上に彼女の性向が内面化されているところは皆無であり、自責し苦悶する彼女の姿からは、彼女の分裂した精神とも形容されるべき気質が露見している。「分裂した精神」とは、一方では家系を慮り一家に汚名や苦労を与えまいとする淑やかな善良さのなかにあって垣間見られる気位であり、もう一方は美徳や矜持を抱懐しつつも敬愛する伯父家族の淡い安楽の為に自己犠牲的精神から金を盗もうとする恥辱である。
 「気位と恥辱」という懸隔した魂の分裂にこそ『大つごもり』の本領があるのではないだろうか。逆に言えば、お峯の隔たっているその意識に胚胎している煩悶、悲哀を感取できなければ作品に揺曳している陰鬱さやその要因としてある貧困故の憂苦も本質的な意味で感得すること能わないであろう。

「拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする」
「犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻の仕業はと今更夢路を辿りて」

 こうしたお峯の言葉からは、自身を責め苛んでは懊悩している彼女の心がわかるが、着目すべきは彼女の観念に神仏の存在が生起されていることである。金科玉条たる社会律法に悖る行為から、彼女は罪を自覚しているのではない。自身の胸中で醸成された牢固とした内なる倫理規範を逸脱したからこそ罪深さを覚えているのである。その規範意識は社会的常識によるところの外的なものではなく、神や仏といった形而上的な、それは内的なものから形象されている。つまり、「法律に背いたから葛藤し、苦しんでいる」という意識ではなく、苦悩の本源を彼女自身の主体性のもとに内在化させ、それ故にこそ、彼女は煩悶しなければならないのである。「自らの問題として引き受ける」ことは現代倫理の課題の一つであるが、この作品はそういう意味で現代的問題意識を蔵した心理小説の側面を有している。
 『大つごもり』の別の妙味は、お峯と対蹠する人物として石之助が配置されているところにも見られるであろう。彼は狡猾で豪放磊落な性格であり、吝嗇とは無縁な人物である。家族に金銭を無心することも勝手に持ち出すことも意に介すことはない。この彼にあって、お峯の自意識による悲愴感は鮮明となる。
 近代拝金主義的背景を舞台装置とし、各人物の価値観の相違を点綴させながらお峯の悲愴な自意識を作品中に屹立させる一葉の構成力は見事である。そして、お峯の倫理観と相反する石之助が結果として彼女を救うこととなる最後はアイロニカルであり秀逸な演出であろう。

闘い

「詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいずれも不幸だった。(中略)僕はこう云う彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。」芥川龍之介『歯車』


  何もかもが嫌で嫌でどうしようもなくて、人生を悲観し世の中を呪い、憔悴し尽くしては無気力となり、気が狂いそうな時間のなかで、ただただ家中を蹌ろうと徘徊しては絶望的な気分でその場に崩れ落ち、頭を抱え、涙を流し、そうしながらも無機質で無慈悲な時間の悪魔的力に負けては、やがて立ち上がり、しかし何もすることが出来ず『白痴』のイッポリートのように、茫然と壁の一点だけを見ることを余儀なくされている「鮮明なる自失」の状態で、嫌らしい胸の拍動に懊悩しながら、死が何か具体的なものとして迫りくる感覚に漠たる甘美さと恐ろしさを覚えては戦々恐々となり、「なんとかしなければ」という抜き差しならない、地獄の責め苦の如き焦慮に駆り立てられ、昼過ぎ、三時頃の子供達の快活で無邪気な声が、その溌剌たる声色を増幅させながら僕を圧迫させてくること、それを己の境遇に対する憐れさなのだと認めている事実に自嘲、呪咀しながらも、やがて僕は、西日が部屋を染め上げ、次第にその色彩を夕闇へと包み込んでいく夕刻、幾何かの平静と根拠のない期待が自分を多少なりとそわそわとした心持ちにさせている奇妙さに苦笑しつつ、文机の椅子に腰を下ろし書を広げ、それでも止むことなき形容し難い不安と寂寥と倦怠に苦患し、人生を落伍していく破滅的な恐怖に矢も盾もたまらなくなり、ばたんと持っていた本を閉じては、提出期限の迫った課題が現実上の問題となって茫洋の彼方からその輪郭を現してくるのを知覚し、斯く作用が僕をして実際の目的、目標に対処しなければならないとの念を喚起させ、そうした袋小路が生み出す人間心理の結果としての力によって一心不乱、臥薪嘗胆の必死さでもって、生きていく為、今やるべきこと、やらなければならないことに僕は向かおうとするのであるが、漸次その気概も、時の経過から堆積し固着、慢性化された病的なまでの強迫観念とそれによるとらわれ、一元的思考、決め付け、自己否定、失意に負け、眼前に在る巨大な、「現実」という名の困難を正対しありのままに引き受けようとする心も減退し、結句、安逸の汚泥に浸り自堕落な自分に倒錯した快楽を見出だすことで精神的安定を図ろうとするのであるが、かかる機序が自己欺瞞であるとの絶望的認識は、僕が自分を完全なる廃人、駄目人間、淫逸者とするに敵対する勢力として陽炎のように僕と対峙し揺曳することとなり、挙げ句、僕は分裂する自己にただ煩悶し、疲弊し、どかっとベッドに滑落していくこととなり、時間がこのまま永劫止まってくれることを、一生涯眠ったままでいることを、夜が明け、忌々しい朝が更新されることがないことを、つまりは永久に漆黒の闇に埋没したままでいることを渇望しながら、遣る瀬なき苦しみという痛覚をずっとずっと甘受していこうと感じているのである。


「世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」(万葉集
 
  ああ、教えてくれ!かの偉大なる人々は一体いかにしてあんな苦患にたえることが出来たのか!
  食べるものもままならない。喉を潤す一杯のお茶もない。寒さをしのぐ暖炉も、部屋をともす灯りもない。外へでれば債権者、悪鬼のような高利貸しどもの執拗な追跡に怯えなければならない。妻は精神性の病で臥しており、異常なまでの自尊心から嫉妬と疑念と不安に苛まれるなか、それでも生きるために、そう、まさに"生きていくため"に、恥も外聞も捨て作家達は創作をしなければならない。

  彼は金の無心にはしる。糊口をしのがなければならない。借金に借金を重ねる。それはまさに地獄絵図。
 ああ、貧困とはどんなにか人を苦しませ、どんなにか人の心を締め上げては利己的にすることでしょうか!
 無二の親友彼の兄が病に倒れ他界する。哀れなる多重債務の扶養者は、幼い子供たちに食べるものも着る服も教育も与えられない。 
 それでも彼等は負けない。辛辣な世の運命に蹂躙されつくすことなく、人生の奈落から這上がりついには至高の芸術を創りあげたのだ!後世にその名を刻んだのだ!
 おお、なんと陳腐な表現だろう!僕の口吻が、僕の口から発せられる言葉が、偉大なる人々について語らんとするとき、どんなにそれが安っぽい言辞となることであろうか!何故なら、これはすべてただの言葉で、僕はまだ実際に窮乏してすらいないんだからね‼︎(これからどうなるか、それは神のみぞしるですよ。もう、賽は投げられたのだ…)
 でも、それであろうとも、僕は今彼らを称えたくてたまらない気持ちなんだ!ああ、このことは過去にもあった。そう、これは過去の文章をもとに再構成している。でもそれがなんであろう。そんなことどうでもいいことで、くだらないことだよ。偉大なる芸術家達の強さを(ああ、こんなありきたりな表現を許してほしい)、その力づよい生の躍動を、僕は自らのなかに取り組みたくてしかたないのだ!
 
 「強さ?お前は何を知っているというのだい。」ああ、だまれだまれだまれっ!!僕が、僕が今どれ程にそれを渇望しているかお前にわかってたまるか!お前は僕の陽炎だよ。蜃気楼だ。影法師だ。砂上の楼閣だ。だまれ!いい加減に消えうせろっ!!
 
 今までの人生においてこれほどまでの自覚が僕に一体あったであろうか! 諸君はウンザリしているかもしれない。またか、また悲劇のヒロインきどりか、と。そうかもしれない。僕は能無しで弱虫で猜疑心と自尊心だけが強いせいで見るも無残な生活を余儀なくされてきた一匹のイモムシだよ!

「はは、今読むと滑稽だね、正に。お前のどこが無残なんだよ、え。」

ええ、だまれと言っているだろっ!いい加減にしないとその首をへし折ってやるからな!
 いや、これはイモムシに失礼甚だしい!イモムシは懸命に己の生を生きている。生きぬかんとしている。そこには一生懸命さがある。それは闘いであり、闘いこそは人生なのだ。田中慎弥は『蛹』のなかで、昆虫の生命の神秘を描破した。あれこそ闘いの記録だ。そう、だからこの"懸命"が肝心だよ。なによりもこれだけが肝心だっていってもいい。イモムシの全ての誇りがこの懸命にあるんだ。そしてそれゆえにイモムシは尊敬に値する。
 ああ、なぜ僕は自分をイモムシなどと言えただろうか!なぜにイモムシと僕が同等に並べられるだろうか!いや、待ってくれっ!わかっているよ!十分に承知している!僕は諸君らの言わんとしていることはわかるよ。だからちょっと待ってほしい。なにも僕は卑屈になっているんじゃないんだ。ましてイモムシを皮肉って馬鹿にしているわけでも当然ない。あくまで、僕は事実を、事実だけを単純にかつ淡々と列挙しているだけなんだ。

「きみはイモムシ以下だなんて自分を蔑む必要はないよ。きみにも立派な、人に誇れる高潔な心があるんだから。」なんて言葉や思いを暗に欲しているわけじゃないんだ。何も歓心を買いたいわけじゃない。信じてほしい。 
 僕はイモムシとはとても同類ではない。あえていえば殺人前後のラスコーリニコフというとこだろうか。その存在に価値を見出せない。世界から孤絶された感覚。圧迫され続けることの苦悩。 


 「その男はあのリザヴェータを……殺そうとは思わなかったんだ……その男はあれを……ほんのはずみで殺したのだ……その男はばばあだけを殺そうと思ったのだ……<…>」
 
  彼はソーニャに自らの殺人について語るとき、あたかもそれが自分の意思の及ばない、彼自身であって彼自身でない者の犯行であったかのように、「その男」と、まるで自分以外の別の人間が殺害をしたように語っている。ラスコーリニコフは老婆の頭上に斧を振り下ろすときに「力というものがまるでないようだった」が、このことは彼の計画がその最初から形骸化していたことを示唆している。社会の役にも立たないどころか害悪になっている老婆を殺すことは罪であるどころか善行であり、それをなすことは義務ですらあるという彼の思想は完全な自己欺瞞であって、彼自身もそんなことは実は信じていない。彼はただ殺した。試験するためにただ殺しただけである。彼の計画は、その試験のための殺人というあまりに陋劣な事実を隠蔽しておくための隠れ蓑に過ぎないのだ。これは悪魔の所業である。彼もこれが卑しく、醜悪極まりない愚劣な妄想だと気がついていた。しかし、偶然という必然の連続が彼を宿命的に殺人へと駆り立てていったのであり、彼がその呪われし運命の歯車となって悪魔にその身を引き渡したときに、彼の犯行は同時に彼以外の(意思の)者―「その男」―それでもあった。斧を老婆の頭蓋に直撃させたのはラスコーリニコフの内部に在る膂力ではなく、彼の身体に取り付いたサタンの中枢神経である。

 ついにソーニャは目の前のラスコーリニコフが老婆とリザヴェータを殺した人物だと悟る。そして彼女の前にいるその男こそが、今まさに世界で一番不幸な状態にあると確信する。

 「もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のようにどっと押し寄せて、みるみる彼の心をやわらげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつげにかかった。」
………………
  「ふん、なに、物を盗るためさ!もうよしてくれ、ソーニャ?」


 「知らない……ぼくはまだ腹が決まっていなかったんだ―その金を取るか、取らないか」

  強盗殺人ではないのだろうか。ソーニャは困惑する。「ふとソーニャの頭には『気ちがいではないだろうか?』という考えがひらめいた。」

 「ぼくはナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……さあ、これでわかるかい?」

 次にナポレオン願望。しかしそれも核心には至らない。「あなた、それよかありのままを話してくださいな……たとえ話なんか抜きにして」

 「だって、ぼくはただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、けがらわしい、有害なしらみを」

 今度はしらみだ。「だが、もっとも、ぼくはでたらめをいってるんだよ……ソーニャ」彼女はまた困惑する。

 「<…>頭脳と精神のしっかりした強い人間は、彼らの上に立つ主権者なのだ!多くをあえてなしうる人間が、群集にたいして権利を持つんだ!より多くのものを無視しうる人間は、群集にたいして立法者となるのだ!だれより最も多く敢然と実行しうる人間は、それこそ最も多く権利を持つことになるんだ!これは今までもそうでったし、これから先もずっとそうだろう!ただ盲目にはそれが見わけられないんだ!」
<…>
 ソーニャは、この陰鬱な教典が彼の信仰となり、法律となっているのを悟った。
<…>
 「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、すすんで身を屈することのできる人にのみ与えられるのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない―すすんでやりさえすればいいのだ!(中略)で、ぼくは……ぼくは……それをあえてしたくなった、そして殺したのだ……ぼくはただあえてしたくなっただけなんだ、ソーニャ、これが原因の全部なんだよ!」

 ここにきてラスコーリニコフの口から真実が述べられる。彼の告白は余蘊ない。

 「<…>ぼくが自分で自分に向って、おれは権力をもっているかどうか?などと自問したり反省したりする以上、つまり、それを持たないわけだということが、ぼく自身にわかっていなかったのだなんて、まさかお前、そんなことを考えやしないだろうね。それから『人間はしらみかどうか?』などという問いをみずから発する以上、人間はぼくにとってしらみじゃない、ただこんな考えを夢にも頭に浮かべない人にとってのみ、なんら疑問なしに進みうる人にとってのみ、初めて人間はしらみであることを、ぼくが知らないと思っているのかい?<…>ぼくはそのとき知りたかったんだ、少しも早く―自分も皆と同じようなしらみか、それとも人間か、それを知らなければならなかったんだ。おれは踏み越すことができるかどうか?身を屈して拾い上げることを、あえてなしうるかどうか?おれはふるえおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか……」
<…>
 「<…>あのときは悪魔がぼくを引きずって行ったのだ。そして、悪魔のやつ、あとになってから、『お前はあんなまねをする権利を持っていなかったんだ、なぜって、お前もみんなと同じしらみにすぎないのだから』とぼくに説明しやがったんだ!悪魔がぼくを愚弄したんだ。<…>じつはね、あのとき、ぼくがばばあのとこへ行ったのは、ただ試験するために行ってみただけなんだ……それを承知しといてもらおう!」
 「そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!」
 「だが、いったい、どんなふうに殺したと思う?殺人てものは、あんなふうにするものだろうか?ぼくが出かけていったように、あんなふうに人を殺しに行くものだろうか……<…>いったいぼくはばばあを殺したんだろうか?いや、ぼくは自分を殺したんだ、ばばあを殺したんじゃない!ぼくはいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ……あのばばあを殺したのは悪魔だ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ!ぼくをうっちゃといてくれ」
 
 殺人の理由が彼の口から詳細に語られている。彼の犯罪理論は砂上の楼閣であった。そもそも彼自身、その初めから己の空想には全面的に信を置けなかった。馬鹿馬鹿しくて、愚にも付かないような妄想であったはずのものは、種々の要因によって彼の意思を超えて彼を観念の虜とさせてしまったのだ。彼は強迫観念に支配され、自分の思想がどれほど危ういものであるかを確かに実感していたはずであったのに、想念の傀儡となり、悪魔の僕となって、斧を外套の内側に掛け七百三十歩の道程を歩いていくこととなる…。


「いったい、ぼくは、やつらになんの罪があるんだい!なんのために自首に行くんだ?やつらに何をいおうってんだ?(中略)……ぼくは行かない。それにいったい何をいうんだい?人を殺したが、金をとる勇気がなく、石の下へ隠しました。とでもいうのかね?」

 ソーニャはもはや気がついている。こんな言葉は彼にとって空疎でしかないことを。彼自身がこのエゴイスティックな振る舞いを自嘲していることを。ラスコーリニコフは自分の理性ですら制御することができない分裂を抱えている。精神的な崩壊が始まっている。アイデンティティーが幾重にも重なった観念に糊塗されてもはやその存在を誇示することができなくなっているのだ。彼の心に潜んでいる純粋な動物的本性―それは彼のエゴイズムに本能が従属しているということ―は、彼に必死の抵抗を促しているが、自己を見失った彼にあって、そんな足掻きは嘲笑と自己嫌悪をもよおさせるものでしかない。ソーニャは寛大であった。彼女の慈悲全ては今、彼に注がれていた。

「だって、いっしょに苦しみに行くんですもの、いっしょに十字架を負いましょうよ!……」
……
 
 「いっしょに十字架を背負いましょう」というソーニャの声がラスコーリニコフの胸中に反響していた。その残響は彼を自白の道へと誘っていくこととなる。悪魔の声は彼を絶望へと導き、そして今ソーニャの声が彼を復活へと導いていく。ソーニャの部屋に入ったとき「太陽はいつしか西に沈み始めた。」夕日が二人を照らす…。

 「ぼくはね、ソーニャ、どうもそうしたほうが得らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したってしようがない。ただね、何がぼくのかんにさわるかといえば、ほかでもない!あの愚劣な畜生づらをした連中が、たちまちぼくをとり巻いて、目を皿のようにして、まともに人の顔をじろじろ見ながら、愚劣な質問をもちかけて、それに答弁を強いたり―うしろ指さしたりするかと思うと……それがいまいましいんだ。」

 ソーニャはただ黙ったままである。その沈黙の眼差しは裁断する者の無言の圧力などではなく、彼の全てを理会し、彼の全てをありのままに受け入れる慈愛の聖母のそれである。

 「ソーニャは無言のまま、箱の中から糸杉のと真鍮のと、二つの十字架を取り出した。そして自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやった後、その胸へ糸杉のほうをかけてやった。」

 ソーニャは糸杉の十字架を彼にかける。それは十字架の苦しみを共に受けようとする彼女の献身と愛を示している。
十字架のモチーフは、民間信仰における儀式に由来するという。古くから十字架交換の儀式は心の連帯を象徴するだけでなく、血縁なき同一性ともいうべきものを表すのだという。

 「これはつまり、ぼくが十字架の苦しみを背負うというシンボルだね、へ、へ!まるでぼくが今までに、苦しみかたがたりなかった、とでもいうようだね!糸杉のは、つまり民間に行われるものなんだね。そして真鍮のほうはリザヴェータので、それを自分で取るんだね―どれ見せてくれ!なるほど、これがあの女の胸にあったんだな……あの時?ぼくはこれと同じような十字架を二つ知ってる、銀のと、肌守りの聖像と。ぼくはそれをあの時、ばばあの胸に投げつけて来た。いっそぼくは今あれでもかけるよかったんだがなあ、まったく、あれをかけるとよかったんだ……<…>」
 
 ソーニャは糸杉の十字架、民間で行われる儀式の十字架を彼に渡した。それは彼がそれをかけることによって民衆(世界)に回帰することを強く願っていたからだ。ラスコーリニコフは世界から離れ、そして孤独の荒野を彷徨った。その苦しみは人が民衆を離れては決して生きていけない事を彼に痛切に実感させるものであった。その大地から生命の根をもぎとられてしまった彼の浮遊状態の生の空白が齎す絶望をソーニャはわかっていた。ソーニャも自らの身を滅ぼした人であったから…。だが、彼女はそれでも民衆と共に在ろうとし続けた。カペルナウーモフ家の同じ屋根の下で、主人のびっこやどもりの家族と触れあい、リザヴェータと一緒に聖書の朗読をしたりしていた。それは彼女の罪の意識を拭い去る事はできなかったかもしれないが、確かに彼女は民衆の一人として民衆と共に生きていたのだ。
 ラスコーリニコフはソーニャを同じ踏み越えた者といったが、彼女は真に踏み越えてはいない。この表現が適切さを欠くならば、ラスコーリニコフ的な踏み越えなどしていない。彼女は身を滅ぼし、自分で自分を殺した神の掟に背く離反者であった。だが、彼女の信仰の内実は神から全く隔意していない。彼女はラスコーリニコフが願い求めたような、「権力者」「新世界の神」などという立場は露程も望んでいない。彼女の踏み越えはそんな彼の権力志向に基づいているのではない。ラスコーリニコフは間違っている。彼は自分が「法を犯した」という一事でもって世間から悪人として糾弾されることに屈辱をおぼえ、また同時にそんな自分を甘受しなければならないという己の弱さ、存在に恥辱を感じていた。彼は物事の表面しか見ようとしない人間達が我慢ならなかった。しかし、彼もまた同様の誤謬に陥っている。彼もただ「踏み越えた」という一事でもってソーニャを自分と同じ立場に引きおろすが、彼と彼女では踏み越えのないように大きな懸隔があるのだ。その事に彼は気がついていない。ソーニャはその身を犠牲にしたが、彼女の生は民衆からは決して離れていなかった…
 ソーニャはラスコーリニコフの悶えに悲しみを感じていた。だからこそ彼がまた世界へ、民の下へ戻るよう願いながら、彼に糸杉の十字架を手渡した。そして自らは真鍮の、リザヴェータの十字架をかけ、リザヴェータの苦しみをその身に担おうとした。
 ラスコーリニコフはソーニャのもとを去った。大地から離れた彼がまた民衆のいるこの地へと還ってくることを願い贈られた糸杉の十字架をかけ、彼はその足で警察署へと歩く。センナヤへはいった。広場の真ん中まできて、突然彼の方寸に衝撃が起こった。それは彼の全神経を領してその全存在をとらえつくした。もはや私の言葉などはいらない。

 「彼は急にソーニャの言葉を思い出したのである『四つ辻へ行って、みんなにおじぎをして地面に接吻なさい。だって、あなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの。そして、大きな声で世間の人みんなに、<わたしは人殺しです!>とおっしゃい』この言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなとふるわせ始めた。この日ごろ、ことにこの四、五時間の、出口もないような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒しつくしたので、彼はこの新しい、充実した渾然たる感情の可能性へ飛び込んで行った。それは一種の発作のように、とつじょとして彼を襲い、彼の心の中で一つの花火をなして燃えあがり、たちまち火災のように、彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐされて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたままその場も動かず、地面へどうとうち倒れた……
 彼は広場のまん中にひざをついて、土の面に頭をかがめ、歓喜と幸福を感じながら、そのきたない土に接吻した。彼は立ちあがって、もう一度身をかがめた。」

 私達はここでラスコーリニコフが大地と、民衆と和解したのだと思う。だが実際彼の苦難は存続する。民衆との和解はまだ先にあるのだ。しかし、この大地接吻が彼にとっての復活の曙光であったことには疑いない。神から離れ、盲目のなか終わることのない果て無き道を彷徨ってきた彼の蒙は啓かれる。瞑目されたまなこが開かれたとき、その眼に映ったのは一つの幻。
 
 「途中、ある一つの幻がちらと目にうつったが、彼はべつに驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬと、予感していたのである。」

 この幻影はキリストの姿である。自首をし苦しみを受けに行くラスコーリニコフの眼に、ゴルゴタの丘を登坂するキリストの魂がリンクしたのである。今、人類の罪を引き受けて十字架に処せられるキリストの姿は流刑地へといくラスコーリニコフに重ねられている。


………

 「おいっ!!貴様っ!貴様、自分のいったことを覚えているか!貴様は、今、貴様が崇めている、敬愛しているものたちの為にも、卑屈にになるべきでないと、言明していたのだぞっ!誓っていたのだぞ!涙ながらに訴えていたのだぞ!貴様、それをもう忘れたのか!もう、翻意するのか!ええっ、どうなんだよ、おい!」」

ああ、ああ、ああもうわかっている。僕は十分すぎるほどにわかっているよ!だから僕はもうイモムシになりたいんだ。彼らのようになりたいと渇望するんだ。これは、その狼煙だよ。忌まわしい鬨の声なんだよ!

 偉大なる彼らよ!彼らは本当にひたむきであった。自らの生に一生懸命であった。鋭敏なる知能と多感なる精神を有したイモムシよ!美しき蝶よ!貴方たちの魂のひとかけらを今、僕がどんなに欲していることか、今、声高にここに訴えたい。これは一時の感情主義ではない!決して、決してそんなのじゃないんだ。どうしてそんな一時の欲情でもってこの高貴な感情の発露を説明できるであろうか。この僕の心は、神聖なる神秘的な形而上的心性は、一切のまどろみを越えてただ一心にこの願いを支えている!
  旋風のなか現れたる全能の神よ!いと高きところにありて、偉大にして善良なる神よ!僕は今、彼らの血肉となりて、あらゆる困難をも乗り越える力を得たい!彼らの存在の化身として、僕のなかに彼らを宿したい!
 これは傲慢でありましょうか!不遜に過ぎるでしょうか!ああ、神よ、どうか僕に道を指し示してください!僕を騎士的な心を抱懐する堅牢な戦士にしてください!僕はこのまま惨めな自己でいるつもりはない!何か一つでも、一回でも世のため人のために全力で生きてみたい!心から人の痛みを想像しては、寄り添うアガペーの心を持ちたい!社会を、世界を、宇宙を構成する一分子として、一粒の粒子としてこの世に生きたい!ああ、これは全くもって僕の真実。僕の内なる魂の叫び。今、目の前で助けを求める人あれば、僕は一目散に駆け付け施しをするであろう!これが独善的ヒューマニズムだと非難されるならそれでもいい。自尊心の慰みだというなら勝手にすればよい!だが、僕はそうするよ。たとえもし自分の命を代償にしてもするだろう。ただ、外道な人間は除く。

 おお、母なる聖母マザーテレサよ!あなたはどうしてあらゆる人に善良でありえたのか!ああ、僕に、今の矮小なこの僕に、あなたの如き隣人愛の心があればなあ!
 この辛い憂き世に身を沈めながらも、他者のことを想える強い人間に、彼らのような強靭な精神を方寸に刻んだ人間になりたいです。懸命に生きる、言葉ではなく実践する人間になりたいです。イモムシも石も人間も本当は変わらない。この世に生きてその存在を示している。変わらないんだ。


つまりは、つまりは、僕はまだ生きたい‼︎ただ生きるだけでない!僕の能力が正当に認められたい!金持ちになりたい!美しく、高貴であり続けたいんだっ‼︎



近世国文学史之概略

京極夏彦陰摩羅鬼の瑕』中、主要登場人物たる中禅寺秋彦林羅山を俎上に載せ、近世国学について言及する件があります。中古から近世の思想的変遷は幕府の思惑とも重なり興味深い分野の一つかと思います。

    一、近世の和歌受容
 
 近世の国学は所謂、因襲的な中世和歌に対する批判の勃興をその端緒とする。元禄期の歌学革新運動がこれに該当するが、その人物として代表的なものに木下長嘯子、下河辺長流、契沖、戸田茂睡、木瀬三之等がおり、彼らの働きが近世国文学の胚胎する素地となり、延いては広義の国語学、御国学びといった皇国史観へと底流するその嚆矢となっていった。
 ところで、近世に於ける歌学を含めた国学についてその眼目たるところを把握する為には、如上の因襲化された中世和歌の性質をまずは知る必要がある。中世の和歌は古今伝授によって伝承されてきた。古今伝授とは至極簡単に述べれば、『古今和歌集』の解釈を口伝や切紙等により、師から弟子へ秘説相承の形式で授受することで、これは近世に入り堂上歌壇として細川幽斎の伝統歌学精神と紐帯し主流を成すこととなるが、同時にその機運に乗じて、この頃には古今伝授による囲繞された学問の継承に随伴する和歌の形骸化や瑣末化の問題が論難されるようになっていった。
 かかる指摘の背景には、二条家を中心とする堂上歌壇により和歌が一部の文化的特権階級による恣意的な産物と化してしまっていると危惧する地下派(じげは)の主張が存している。彼等は堂上歌壇の専有物としての和歌が、それ故に主観に満ちたものに解されてしまっていると警鐘を鳴らし、そのアンチテーゼとして、古今伝授に由来する中世的権威の跋扈する伝統的歌学から離れた実証主義的見地からの研究に切磋していったのである。そしてこの文学的潮流の隆盛により近世の新しい時代精神は胎生していくこととなる。そのパラダイムシフトにあって、後述する種々の国学者達は時勢の当事者として世に出ることとなったといっても過言ではないであろう。三之は己の直観的見解に依拠し歌学(文学)を捉えることの要道を示し、長流は恣意性を排除し、用例、文献を渉猟しそこから帰納的に考察する実証的態度を奨励する。茂睡も歌を詠む精神の自由を唱える。こうした彼等の実証主義的態度(尤も三之の直観的見解の奥旨は、権威や文壇の共通認識といったようなものに囚われない、個々人の文学への自由な解釈、態度といったものを示しているのであろう。特権階級のみ享受し権威性に拘泥する秘伝思想からの脱却を訴える彼等の切実で真摯な学問的態度に敬意を表する。)ここで契沖の思想を伝える言説を引用したい。「契沖は、放浪生活の中で、真実は俗を離れたところにはなく、俗の中にこそあるという意識を明確にしていったのである。それは、何物にもとらわれず真実を客観的に追究しようとする精神であり、元禄の人間解放・復興の精神そのものであったといわねばならない」。(乾安代他著『日本古典文学史』双文社出版一九八七年)
 この契沖の思想に私は共感を覚える。私は、契沖の「俗の中にこそある」とは、文学が本来民衆から懸隔した境地からは生まれ得ないことを示唆していると読みたい。民衆に取材し民衆の風俗に触れることで紡がれるものこそが小説であり文学なのである。これは坪内逍遥が『小説神髄』に於いていみじくも指摘したことであり、殊に人情本に於いては稗史的な写実主義は小説の骨法である。
     
    二、国学の発展

 国学の大成は荷田春満とする評があるが、それは、契沖の興した実証的学問運動の基盤に春満が規範的性格を付与し体系化させたところにその所以をもつ。国学は古典の文献学的研究を一義とし、考証や校勘を重んじ客観的且つ精緻なものとして実証的に研究されることが要諦だとする春満の骨子は、近世国学者達の思潮を生み出す創始となる。その糸口として、春満の叙した『創学校啓』が幕府に献呈されたことが影響しているのは確かであろう。上の著物は先述の如く幕府に提出した奏上文であり、彼は上記作物に於いて古義を明らかにする為に古語に通暁し、そのことによって古(いにしえ)の学びに回帰していくことを希求する。こうした行動や姿勢からは、学究の徒たる彼の気概が充溢している。
 『創学校啓』について次の引用を挙げてみよう。「彼は一七八二年(享保一三)に、皇国(日本)の学問をする学校を、京都の地へ建設したいので『幸に一(いっ)傾(けい)の地(百畝ほど)を賜らば、ここに皇倭の学を開かん(原漢字)』と述べ、さらに『臣が愚衷(ぐちゅう)を憐(あわれ)んで業を倭(わ)学に創(はじ)め』と言っている。すなわち中国の儒教、インドから朝鮮半島をへて日本へ伝来した仏教などの影響こうむっていない純粋の日本学が、春満の説く倭学なのである」。(麻原美子編集委員代表『-日本文学はいかに生まれいかに読まれたか-日本の文学とことば』東京堂出版一九九八年。)右記の論述から、春満が如何に皇国の学問を修め、それを学問としての古道に於ける本義、別言すれば外来思想を排斥したところに厳然と屹立する倭学への純一な傾倒こそを信奉していたか見て取れる。
 賀茂真淵が春満に師事したのは真淵三十の時分であったが、彼は春満の薫陶を受けつつも契沖に私淑し、また後年には田安宗武に仕え、その遍歴のなかで独自の学問観を確立していくこととなった。まずは春満と同様の私見を表白した著作として『国意考』を概観する。ここで真淵は儒教、仏教を批判的に論じ復古的国粋主義の立場を表明しており、かかる点に春満の感化は看取出来よう。以下はそれについて説明した一文である。「古くわが国の人々の心は質実剛直で世の中は自然によく収まっていたが、儒学・仏教という外来の思想が入ってきてからは人々の心は狡智になり、その神皇(すべろき)の道が失われていった」(前掲書。『日本古典文学史』)。
 然るに、真淵を春満と完全に符合し総括的に論じることは出来ない。何故ならば、真淵には『万葉集』をもって、そこに神皇の道が開かれると考えているからである。真淵はあらゆる万葉歌は丈夫(ますらお)の気質を内包しており、古は全てますらおに習っているという。 ますらおの意味としては、一般に立派な男子や優れた男と説明されるが、斯様な意、そして丈夫という言葉に包含される聡明さや剛健さといった逞しさの気風に真淵は大和人としての矜持や信念をみたのではないかと考えられる。真淵はその健全な、大和魂とも形容されるべき心に日本人の古の精神を仮託させようとしたのではないか。これは真淵の過去への憧憬とも忖度出来よう。
 『古事記伝』、『玉勝間』等で著名な本居宣長の学問観は文学を歌学論、復古神道論とみることで国学を完成させようと企図するものであった。そして学問は須く認識論と結合し、故に歌学の十全な認識が求められた。そのような見地から彼は『源氏物語』に芸術上の価値を置き、そして、宣長によって人口に膾炙した「もののあわれ」論が耳目を集めることとなるのである。
 宣長は、日本が天照大野神の御本国であり、それをして世界に冠絶した国であると説いた。彼の激烈なまでの神国観は後の平田篤胤によって確立された復古神道と地続きになっている。
 国学思潮の展開として俎上に載せる代表的人物の最後として前述の平田篤胤がいるが、彼にあって国学は徹底的なまでの外来思想の排斥と相接している。国学への思慕やその大義に因をもつ斯様な排除の気運は、これまで論じてきた思想家に於いても論じてきたが、篤胤の場合は、国学の世界観である神道を擁護し補強する為に、独自の、宗教性を強く帯びた神道説を標榜する。そして、その強い独自性を帯びた彼の宗教的神道観は外来思想(儒教、仏教が主であるか、乃至はそれらのみを指している。)への猛烈な攻撃なのである。斯く宗教的盲信は、近世国学の潮流にあって篤胤に顕著なものである。つまり、皇国の学びに至純であり、外国に対してあまりに不感症であった故、彼の観念は現世風に言えば極右的なそれに比定される。
 然ればこそ、篤胤は近世国学の系譜を継ぎながらも、その思想的色彩としてあまりに宗教色が色濃く顕在するわけである。篤胤は国学者として復古神道を確立させた人物であるが、彼の熾烈極まる外来思想排斥への執心は、明治維新廃仏毀釈運動に連なっていくこととなる。

amazarashiな人生を生きる僕らへ

傍らにはいつだって音楽があった。
 

  中学の頃、アニソンやヴィジュアル系ミスチルなんかをよく聴いていた。
 高校の頃、xjapan、ベートーヴェンショパン、バッハなどのクラシック、オアシス、トラヴィスU2などのUK音楽をよく聴いていた。
 浪人の頃、Cocco鬼束ちひろなんかをよく聴いていた。
 
 そして、大学の時分、僕は「amazarashi」という驚愕のアーティストを知った。今、僕は改めてこの人達の音楽に感動している。僕の心が、彼等の奏でる一つ一つのメロディによって癒されていくのを感じる。『あんたへ』を聴くと、「まだ頑張れる。まだ、生きていくことが出来る」そんな風に、震えさせられるんだ。

 僕はかつて音楽を創る人に憧れていた。それは音楽のもつ力を実感していたから。今、その夢を追い求めることはもうないけれど、音楽は美しい。芸術は素晴らしい。この奔出するいとおしき痛みを共有したい。

ドストエフスキー案内1-「5大長編概説」

「五大長編」と書きましたが、『未成年』に関して再読をしておらず論考が現時点で危うい為に割愛します。人物論としてヴェルシーロフはとりあげたかったのですが。

ドストエフスキーは私が「最も好きな」作家です。one of themではなく、最上の作家です。ゼミも卒論もドストエフスキー研究です。『罪と罰』は中学生で読破しました。


Ⅰ、『罪と罰
 
  この作品には一種「悪魔的」とも形容されるような、読む者の心を惑溺させ、鷲掴み離さない蠱惑的魅力が詰まっている、そんな形容をしてもそれは過言ではないでしょう。
  作品の主軸は「ラスコーリニコフの絶望と復活」にあるでしょう。そして、その復活にソーニャという人物を配し、聖書の「ラザロの復活」に重ね合わせることで物語を重層的(メタ領域の次元)に昇華させています。
罪と罰』には、極度の貧困から酒に溺れ、娘の「純潔」さえも金に替えてしまいながら「どこにも行き場のないということがどういうことかわかりますか」と訴えるマルメラードフ。シニシズムに満ちた悪魔的なスヴィドリガイロフ。マルメラードフの後妻であり、極度の貧困に自尊心を深く傷つけられながらも高貴な魂を失わないカチェリーナ。「私はもう終わった人間なんですよ」という科白が印象的な敏腕な予審判事ポルフィーリー。他にも、ラズミーヒン、ドゥーニャ、プリヘーリヤ等々、考察を促す重要人物達が数多く登場しますが、ここではラスコーリニコフと敬虔なキリスト教徒たるソーニャ、この二人の関係に絞って「魂の救済」という観点から概説していきます。
 ソーニャの存在はロシアの言葉でいうところのいわゆる「ユローディヴィ」(痴愚者。狂信的、陶酔的、白痴的な神がかり的な存在。ドストエフスキーはこのユローディヴィに対して崇高の眼差しを持っており様々な作品の中で登場させています。)であります。ラスコーリニコフ無神論的な思想、それはロシアの大地から切り離されてしまった者(分裂<ラスコール>したもの)と対立する、母なるロシアそのものの象徴としてソーニャは創出されています。このロシアの大地の具象的存在者としてのソーニャに関し、井桁貞義氏は著書『ドストエフスキー言葉の生命』のなかでソーニャが身にまとっている緑色のショールに注目してシンボリックな視点から考察しています。

  「(中略)小説の終幕近く、殺人者は罪を持ちきれず、自白を決意してソーニャの下に赴く。ソーニャは糸杉の十字架を彼にかけ、自分はリザヴェータからもらった銅の十字架をかけてセンナヤ広場に向かう。その時彼女が肩にはおるのがあの緑色のショールである。そして幕切れ、シベリアのイルトゥイシ河の岸辺での二人の復活の場面でも、ソーニャが緑色のショールを被っていることを作者は描き忘れてはいない。そうしてみると、わずか三回だが、(「三」が「父と子と聖霊」を示す聖なる数字であり、何事かの成就を表すシンボルであることを思い出そう。予審判事ポルフィーリィはラスコーリニコフと三度会って自首を促すのだ)小説に現れるこの緑色のショールはソーニャ像と分かちがたく結び付けられていることが感じられるだろう。
そんなことが気になったまま、私は東京で開催された「ロシア・イコン(聖像画)展覧会」で、ああ、これか、と思ったのだった。ロシアの聖母像のいくつかが、緑色のショールをかけているのだ。そのイコン展のプログラムには「緑は永遠の生命を表す」とかかれていた。緑はヨーロッパ文化の伝統の中では、清浄を表すシンボルであり、豊饒、新鮮さ、希望、自由、喜びのシンボルとなり得る事もわかってきた。(後略)」

 ソーニャのラスコーリニコフに対する盲目的かつ献身的な愛は彼を復活へと導くのですが、ソーニャの愛というものは積極的な、ともすれば教義的になりかねないような主体的愛というものではなく、受身的なそれであります。彼女は彼をただただ見守り、彼の思想をありのまま彼女の中に取り入れ、それを受け入れながらも、キリストの愛、神の愛から分離してしまった彼への憐憫を端緒とし彼を懸想していきます。やがて受け身的なソーニャの存在はラスコーリニコフを大地に接吻させるに至るようになります。ラスコーリニコフのビルドゥングス・ロマンのみならず、ソーニャも物語の中で主体的な存在として振る舞っていくのです。
 さて、彼女もまた罪深き者でありました。家族の為に自己犠牲的な「自分殺し」を行った彼女もまたラスコーリニコフ同様、社会から「踏み越えたもの」であり切り離されたものなのです。ユローディヴィである彼女にそのような立場を与えたドストエフスキーにこの作品の深遠さの一つが伺えます。

Ⅱ『白痴』

 「無条件に美しい人間を創造しようとした」
 上記ドストエフスキーの言葉が有名な『白痴』であります。この作品の主題のひとつは、現代ロシア社会に無条件に美しいイエスキリストのような存在が登場したとしたら、(その存在は「白痴」の主人公ムイシュキン公爵。白痴であります。つまり彼もまた「ユローディヴィな存在」であります。)その人物は、この現代ロシアの混迷の中では白痴のままで在りつづけるほかない、というものです。
 小説の終盤、ロゴージンがナスターシャを刺殺する場面は、涙する彼の前でその涙をそっと拭うムイシュキンの行為を「最も美しい場面のひとつ」であると感じます。そして、その後「文字通りの」白痴に戻ってしまう彼にこの作品の悲劇性が現れています。

 やはりこの作品においても魅力的な登場人物たちの群像劇を考察したいところですが、今回は「近いうちに絶対的に自分が死ぬ」ということが確信的であることに絶望し、世界をニヒリスティックに眺める聡明な青年イッポリートの作中のエッセイ「我が必要欠くべからざる弁明」を中心にした、彼の人生観、思想をまず取り上げたいと思っています。(イッポリートの引用は後日。)

 次に、ハンスホルバイン(子)の『死せるキリスト』をみて「俺はこの絵が大好きなんだ。!」とムイシュキンに語るロゴージンとムイシュキンの対蹠的な生き方の考察。ロゴージンはニヒリストであり、無神論者であります。上述した、死を宣告された青年イッポリートはこの『死せるキリスト』に現れるまったくの「完全なる死」を前にして、なぜこのような死体の前で、イエスの弟子達は彼が復活するなんて信じることができたのだろう、と考えますが、まさしくロゴージンも同じような問いが彼の発言から読み取れます。ここでそのロゴージンとムイシュキンとのやり取りを紹介してみます。

 「ところで、レフ、ニライチ(ムイシュキン)、俺は前からあんたに聞きたいと思っていたんだ。あんた、神様を信じているのかい、信じていないのかい?」
何歩か歩いてまたロゴージンが言った。
「君はなんて変な聞き方をするんだ。それに…その目つきもだけれど!」
と公爵は思わず言ってしまった。
「あの絵をさ、見ているのが好きなんだ、俺は」」
ちょっと黙ってから、まるでまた自分の聞いたことを忘れたように、ロゴージンはぶすっとした声で言った。
「あの絵をだって!」
予期しなかった考えに突き動かされて、公爵は思わず声をあげた。
「あの絵をだって!人によっては、あの絵のせいで、あった信仰も失われかねないというのに!」
(『白痴』第二編四)
(注)実際にドストエフスキーは旅行中に訪れたドレスデンの美術館の中でこの絵を見ておもわず何時間もそこに立ち尽くしてしまったといっています。おそらく、彼の中でこの絵は圧倒的な存在感を持っており、終生彼を悩ましつづけた信仰と無信仰の問題に、何かしら脅威的な超自然的な負の力を与えたものと思われます。

Ⅲ『悪霊』

  かつて日本赤軍が自分達の仲間を疑念から射殺したとき、また近年ではオウム真理教がそのカルト的なファナティックな思想を反社会的な虐殺という行為で示したとき、ドストエフスキー評者はこの『悪霊』を現代の預言書として言及してきました。
 なるほど、確かにこの作品においては、豚の中に入った悪霊どもが湖に落ちて溺れ死に、悪霊を取り除いてもらったものはイエスの元に座して救われるという「ルカ福音書」をエピグラフとして用い、西欧の近代思想に溺れ、そうした思想にとり憑かれた革命家たちが悲劇に見舞われ、残ったロシアの人々は浄化されキリストの下に生きる、という明確なヴィジョンがありますが、私はここではこの作品に関し、そうした、いわば俯瞰的な視座からの考察はすべて排し、ドストエフスキーが生んだ最も深刻なニヒリストともおもわれるニコライ・スタヴローギン(ギリシャ語で「十字架」を意味する「スタヴロス」からとられています。)およびその教育者かつ養父であったステパン・ヴェルホヴェンスキー、さらに独自の人神思想から神への挑戦を試みるキリーロフを主に照射してミクロな視座から論じていければと考えています。

 ニコライ・スタヴローギン
「教唆する」この言葉は『悪霊』を考える上で欠かせない用語ですが、広くロシア文学、そしてドストエフスキーに関しても専門的に研究されておられます亀山郁夫氏はこの「教唆」という概念を「使嗾」(しそう)という概念を使い説明しています。
 
 『悪霊』の主題を一言で表すならば、それは「使嗾の劇である」私も亀山氏同様そう言えると思います。革命運動の虚無と愚を中心的テーマとし、その前提から、この小説でドストエフスキーは神と人間の関係を深く念頭におくことを企図していました。
 
 「この小説には、二人の「神々」が登場します。すべてを可能ならしめる地上の神ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと、一切を沈黙したまま見下ろす天上の神ニコライ・スタヴローギンです。二人に共通するのは使嗾する権力です。地上の神は現実の「変革」を志向するのに対し、天上の神は暗示によってフィフティーフィフティーの可能性に賭ける。(中略)そしてこの使ソウとは、じつは革命が必然的に抱え込まなければならない力学の本質なのです。(後略)」(『ドストエフスキー父殺しの文学下』NHK出版)

 亀山氏の論は、『悪霊』がその作品中に包含させる悪魔性を的確かつ端的に表しています。ピョートルに関してここでは詳述しませんが、確かに彼はあくまで「地上的」な存在に終始しており、その生き方はあくまで俗的な類のものです。革命によってテロルによる政府転覆の実現を標榜させながら、その根底にはあくまで虚無的な退廃した世界像しか見ていない彼の心は、その行動の本質に、革命を唆し地上の秩序を破壊せんとする子供じみた精神がみえます。

 一方スタヴローギンはあくまで「天上的」な存在です。ピョートルをして「あなたがいなければ私はガラス瓶の中の蝿です。ガラス瓶の中の理念です。」と言わしめた彼は、そのピョートルをはじめ様々な人物に影響を与えていきます。シャートフは彼の思想の中にロシア民族の誇りと世界平和を賛美の心を見出し、その考えに打ち震えながらも、彼の中にある虚無を発見し絶望します。
 キリーロフは彼の無神論に惹かれ、神が存在しないなら自らが神にならねばならない、という独自の哲学を掲げます。「苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる」とし、それを証明するために自殺する彼もまた、殺されたシャーとフ同様悲劇的な人物です。
 ピョートルが現実的で革命に向けて実際に奔走していきながら人々を扇動していくのに対し、スタヴローギンはあくまでそういう地上の(下界の)出来事の一つ一つをより高みから見下ろし、ピョートル達の行動によってもたらされる事件を楽しむために、それを促す天啓のようなものを与えていく存在です。(たとえばキリーロフに関しては、スタヴローギンは思想を吹き込み、破滅へ導くものですが、ピョートルはその自殺の場で「早く死ね。」と直接的に促すものです。)
かかる傲慢な神、十字架を背負いながらその十字架そのものを侮蔑する神スタヴローギンこそ『悪霊』の神髄であるでしょう。
 それにしても亀山氏の論には多分に影響されました。

Ⅳ『カラマーゾフの兄弟
 
 ドストエフスキー畢生の大作。世界文学史上に燦然と輝く名作。古今東西幾多の賢人がこの作品に感銘を受け、崇めてきました。かの天才哲学者ウィトゲンシュタインはこれを50回読んだという逸話は有名です。実に多くの思想家、芸術家、科学者…世界の知識人が雷光に打たれたかのごとく、この作品を絶賛します。金科玉条とし、絶対的な力をもつ現代の聖書、それこそが『カラマーゾフの兄弟』でさります。

 「カラマーゾフ」という言葉の由来はトルコ語及びロシア語の合成語であり、「黒く塗られたもの」という意味です。
この作品は壮大な人間群像劇であり、そこには様々な主題が鏤められています。正に集大成といえますが、それだけに、未刊となってしまった第二部があまりに惜しまれます。
 『罪と罰』において萌芽的な形で示され、『白痴』『悪霊』『未成年』へと続くドストエフスキー後期作品群を貫く「信仰、不信仰の問題」はこの『カラマーゾフの兄弟』において集約されます。ロシアの民衆とともにあり、ともに生きようとしたドストエフスキーの真摯で切実な姿がこの作品に現れているのです。


アリョーシャ・カラマーゾフ
 僕は文学史上、このアリョーシャ・カラマーゾフこそ最も美しい人間だと感じています。
 『カラマーゾフの兄弟』はもともと二部構成で構想されていました。一部刊行後ドストエフスキーが急逝されたため、第二部は世に出ることはなかったのですが、本来このアリョーシャは第二部でこそ主体的な存在として躍動することが作者の中で期待されていたのです。そのためか、第一部ではその役割におおきな能動性が与えられてはいません。
 ゆえに、アリョーシャは他のドストエフスキーの人物達に比べて「魅力に欠ける」といった態の評価をもらうことがあります。確かに第一部において際立った存在感を放っているのは、その愛憎劇に人間精神の崇高さと醜悪さをみるドミートリーやフョードルであったり、信仰と不信仰の果てに「父殺し」(<父>とはメタのレベルで神を殺すことがモチーフとしてある)をめぐり苦悩するイワンとスメルジャコフであったり、ソロヴィヨーフの神秘観に母なるロシアに降り注ぐ光明をみたドストエフスキーがその神秘思想をたくしたであろうゾシマであったりします。
 しかし、彼らの中で蠢くその「黒く塗られた」魂が破裂しそうになるとき、その魂を包み彼らを社会との紐帯の中に結び付けておく役割を果たしているのはまさにアリョーシャなのです。(アリョーシャはゾシマに対しても感化されるだけでなく、自ら感化した存在でした。)
 アリョーシャは決して観念的な聖者などではありません。彼もまた「信仰と不信仰の狭間」にゆれるドストエフスキー的人物なのです。(ドストエフスキー的人物とは、意識のなかに際立った二重性が顕現される人物であり、その意味では極めてロシア的人物像であるといえます。アリョーシャは際立った二重性こそ示していないものの、作者がイワンやラキーチンの口から言わせているように「カラマーゾフの血」を受け継いだ人物として描かれています。)


〇イワン・カラマーゾフ
 「神の作った世界を認めないんだ!」というイワン。
 イワン・カラマーゾフの叫びから私は彼の切実なる魂の叫びと真摯な善良さを見出します。彼は決して無神論者ではないし(「神はいない。」という言明がないというわけではありません。実際フョードルとの問答では「神はいない」と語っている。)、スメルジャコフが恣意的に援用する「(神がなければ)すべては許される」で安易に糾弾されるべき人物でも決してありません。
 「プロとコントラ」の章の中で彼は次のようにアリョーシャに語りかけます。
  
  「あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考え出すべきであるS'il n existait pas Dieu , il faudrait l'inventer.(ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、といったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、不思議でもなければ別段驚くべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入り込みえたという点が、実に驚くべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。(後略)」(原卓也訳 新潮文庫)

 この言葉はヴォルテールの言葉として有名であります。ヴォルテールはドイツ哲学者ライプニッツの予定調和説(現実の世界が神によって取捨選択された後の最良のものとして現れたものだというもの。)を批判しています。まったくの偶然から起きる不幸な災害や不幸、不遇な境遇にいる人々がこの世界には溢れているが、ライプニッツはそれを忘却している、というわけですが、イワンの言う人間の邪悪性における私見もこのヴォルテールの考えが起因となているものだと思われます。