harustory’s diary

日々の思索、その物語

回想1

17歳の回想。


  これだけは書いておかなければならないと、そう思った。
  いつだって、僕には死が纏わりついていた。苦しく、不吉な予感が僕を支配していた。それでも、僕は生きてこられた。理由は2つある。
・物質的に生きられる環境が与えられていたから。
・穴蔵に閉じこもっていられることが許されていたから。

  今、僕には2つともがなくなりつつある。生きるならば、どうしたって学校に行かなければならない。そして、今の学校は、どんなに苦しくともすぐにやめるわけにはいかない。
  しかし、ありえないほどの苦しみを抱えながら、どうして人は生きることができるのであろうか。いわんや、勉強なんかすることができるのであろうか。
  それでも、逃げられない。逃走する場所なんてない。僕は、もはや親鳥の庇護を離れ、独り生きていくことを余儀なくされた小鳥。

  予感が怖い。この感覚に戦慄する。獰猛な社会に喰われ、絶望の啼声をあげる僕の姿。
  僕には死が纏わりついている。容赦なく進んでいく時間をこれほどに恐怖する自分がいる。人は人生の袋小路に入りこんでしまったときに自死するのであろう。もしくは発狂。それはつまり、「逃げられない」ということ。
  ああ、神よ!僕はあなたを敬っていた。しかし、今問いたい。汝は何故僕にこれほどの苦難を与え続けるのか。それとも、僕はまだ苦しみ足りないというのか。神よ!これは僕の宿世だというのか。これは僕の罪なのか。
  言葉を、あなたの言葉をください!僕にはわかりません。どうしたらよいのかわかりません。
  僕はエゴイストです。ですが、僕は僕を許容できないんです…。認めてあげられないんです…。

対話篇

  「以前、先輩はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を例に挙げ、いきなり難解な原典の訳本にあたるのは時に危険(それが婉曲的な意味であったしても)という旨を仰っていたと思いますが、それについて一寸申し上げたき事があります。

  自分はこれまで何冊か新書の哲学史や思想家の解説書を読んだのですが、これらを読んでいるとき、著者が『これがAだ』といったものを『これがAであるのか。』と、その概念を只々受け止めているだけというような感じがしました。その時に、自分は出し抜けにこう思い至ったのです。『本当にAについて考えるためにはAそのもの、それはAなる概念を表出した原作者の著書自体に触れるべきなんじゃないか』と。そうして、実際に原著の訳本を読んでみたわけですが、Aに関して殆ど理解できない自分を痛感しました。そこで、解説書のありがたみを知ったのですが、それでも解説書で得られるA像は解説書の著者のものでしかありえないのではないかという考えは残っています。

  もちろん、翻訳本にあるAの概念も、著者によるAの像であり、例えば『実存』という概念一つをとってみても、そこに神や超越者の姿を思い描き、それを前提としたキルケゴールヤスパースらと、神や超越者の姿を想定しなかったハイデガーや、その無神論的実存思想を継承したサルトルらとでは差異があるように、普遍的概念ではない事は理解しています。それであったとしても、解説書の像とは大きな差がある、そこに原作との非連続性を覚えてしまうのです。

  長くなりましたが私が質問したい事は、哲学についてのある概念や思想について解釈を得ようとする時、自分でそれが見つけられないようなら人の解釈をそのまま持ってくることを認めるべきなのかということであります。」


  「原作者の思想が出来うる限り忠実に再現されているであろう翻訳本と、それを解説、批評した評論家のそれとの間にある懸隔、及びそこから生じる解釈の一元化に対する疑義は、学問を志向する人が折に触れては考えるものだと思います。

  芸術もそうですが、誰かがその作品を鑑賞し感じた解釈は、本質的にありうべき可能性の一つとして受容されなければなりません。何故ならば、一つの思想なり芸術なりに一つの固定化された解釈が一対一で示されるならば、思想や芸術はその拡がり、多様性を失ってしまうからです。

  例えば、カフカの『変身』では、主人公グレゴール・ザムザが突然毒虫に変化してしまいますが、あの作品の主題は、近代個人主義により実存的存在である固有な存在としての人間が社会によって孤絶されてしまった喪失感を、いきなり人が巨大毒虫に変容してしまうという不条理性のアレゴリーによって示した作品であります。これはカフカ文学の通説的解釈の簡単な紹介となるでしょう。

  カフカの作品にみられるような表現主義文学に対する解釈のかかる権威的傾向性は、しかしながら、"作品そのものを味わう"という小説を読む行為の原点を忘れさせては、読者をその権威性の下に誘導せしめては作品それ自体から離れさせてしまう懸念があります。それはいうならば"物語としての文学"が消失してしまう事にも敷衍される現象です。

  哲学書も事情は変わりません。その意味において、キミの原典への拘り、そこにこそ基礎を置かんとする態度は学問的態度として純粋であります。

  そうでありながらも、哲学書は、思想的な錯綜と概念の不文律が殊に中世あたりから露呈しはじめています。それは同時に、日本語としての翻訳を能はしめない次元にまで哲学が抽象化、別言すれば形而上化されてしまったとさえ言えます。ここには、西洋の言葉と日本のそれとが、文化背景的に異質である故に顕在化された言語性質的問題もあります。また、キリスト教に由来され、キリスト教支配下で形成されていったヨーロッパ思想と、近代化の過程で形而上的な存在への認識が欠如された日本思想との乖離も存しているでしょう。

  そうした事を考慮すると、原典訳本に最初からあたるのはやはり"危険"なのです。真面目な人ほど。真面目であればあるほど、何とかそこに自分なりの意義、解釈を見出そうと腐心し、畢竟、牽強付会の陥穽におちて言ってしまいやすいのです。やや諧謔調に、また比喩的に言えば、哲学を学ばんとする者は、正にその哲学自身の手によって殺されるかもしれないのです。

よって、原典の翻訳本は、基本的にその大半は最初に手をつけない方が無難です。プラトンデカルトショーペンハウエルニーチェ後期、サルトルあたりは翻訳本から読みはじめてもよいでしょうが。


  「回答ありがとうございます。

  ところで、世に解説書が存在するということは(元をたどれば)あまりに難解なものでも自力で解釈をした人がいたということになりますが、その人達と同じ姿勢で、つまりは同じ読解のベクトルで向き合う必要はないということでしょうか?」


  「その人達を意識し、真摯赤誠なる姿勢で歴々の研究者達の解釈なりと、(それは対話する感覚であるように)読むことは肝要なことです。何故なら歴々の方々も、同じように昔の歴々の研究者達の解釈を通して、自分にとっての『パンセ』であったり、『存在と時間』であったりを見出してきたからです。評論書を原典に対する評論書とみるのではなく、一つの独立した読みものと捉えるといいかもしれませんね。」

Crime and Punishment

死のうと思った。それは「恥辱」に耐えられないと感じたから。

 彼が感じた恥辱がなんであるか、僕は今ここでそれを赤裸々に告白したいと思う。それが、彼の感情を解き明かす事は、そのまま僕の苦悩を、呪われし忌々しい懊悩を、解明することにもなるのだ。
 

  彼はずっとずっと踏み越えたかった。それは、世界の秩序からの踏み越え。この世の論理からの踏み越え。そして、社会の不正からの踏み越え。此岸と彼岸の境界線を越え、神の作りし世界を呪い、自らが神たる者として新しい調和的世界を、水晶宮を築こうと彼は思った。

  そのための第一歩として彼は決意した。"あいつ"を(=社会のダニ)殺害することは、彼にとって新しい世界建設の記念すべき一里塚となるべきものであったはずであったから。前途は洋々に広がり、彼には無限の可能性が溢れているはずであった。
 

 彼はダニを潰した。ダニをプチっと握りつぶした後、彼に襲い掛かってきたのは圧死され飛び散ったダニの汁。体液。それが彼の身体に付着し、こびりついた。死臭が漂う。「何故殺した!」そんな呪詛のような響きが、声なき声が、腐乱臭を嗅ぐような猛烈な吐き気となって彼を苦しめる。
 「認めないっ!認めないっ!!僕はあの害虫の存在など歯牙にもかけてやしないっ!生き返ったらもう一度殺してやるっ!何度だって何度だって、屍が腐って腐って腐りつくすまで僕はアイツを屠り続けてやるっ!」

 嘔吐させる様な亡者の気配は彼を苛立たせる。 
 「それより彼女だ。」彼はあの時思った。「どうして、どうしてあの場に居合わせた?なんでいるはずのないお前があの時間に帰ってきた?」彼は苦悶した。彼は彼女達のような善良な人間を救おうとして、そのためにこそ凶刃を振り上げたから。

 彼の第一歩は儚かった。勇壮で偉大なはずの栄光へと続く記念すべき一歩、踏み越えは光輝なる道程などではなく死の淵への滑落であった。血みどろの殺人劇は死の行進への第一歩となり、忌避すべき醜悪な現実であった。
 彼に訪れた諦観。それは際限のない虚無が十万年の十万乗も連綿と続くような無辺法界。どこへいってもあてのない完全な無の世界。絶無。彼はこのとき人類との断絶を、絶対の孤絶を確かに「感じた」。論理ではない確かな感触。生理的な感覚が彼に事の次第を絶望的に明白にさせた。
  ただ踏み越えることのできなかったという屈辱感をして彼に苦悶を与えせしめている、そう、彼は気がついているた。

  あのダニの腐臭を嗅ぎつけてしまう。そんな匂いなどするはずもないのに。予期しなかった第二の殺人。慈悲深い彼女の殺害に良心の呵責を感じてしまう。きっとこんなことなど青銅でできた人間であれば微塵も気にすることはないというのに。個の犠牲など全体のために必要不可欠だというのに。(ナポレオンやマホメッドであればきっと何の呵責すら覚えることはなかったであろう。彼らの意志の前にあっては良心の呵責などは粉塵の如く吹き飛ばされていくだけだ。)ああ、こんなことは当の昔に認識していたはずではなかったのか。
  そうして彼は、そんな自分がただの美的しらみに過ぎないと実感する。所詮自分も大多数と同じしらみでしかなかったのに己の力量を超えた願望を抱いたせいであまりに陋劣な結果を甘受することとなった彼は、その矮小で惨めな性質のせいで、「血を流す」という審美的に美しくない行為をしてしまっただけに、圧倒的多数のしらみ達よりも数段卑小な存在であった。
 彼にとってこの事実は「恥辱」以外の何ものでもない。思想自体の崇高さ、完璧さに反比例するような行為の帰結の拙劣さ、汚らわしさは、その目的が純潔な志と遠大さに縁取られているだけにとても忍従できるようなものではなかった。
 実際これは恥辱の極致であった。それは彼が「ただ殺人を犯した。法に背いた。」というその「事実」それのみによって、ただそのことだけによって「犯罪者」として社会から白眼視されるという現実が厳然と聳え立っているからである。そいつが堂々と、鹿つめらしく屹立しているからである。このしたり顔で得意げな気色をぷんぷんと臭わす世間というやつらは、社会の悪を黙認し、常に傍観者たるをやめない俗物、愚か者達の群れに過ぎないくせに、ただ「法に触れた」というその一事でもって、彼を社会のならず者だと非難し、罵り、嫌悪し、一段下の人間として扱うに違いないからである。
 「おおっ!こんなこと許されていいはずがない!」彼は憤慨する。

 「誰が、僕以外の一体誰が、この汚濁に塗れた社会を変えてやろう、そう高邁な正義感から瞋恚の炎を滾らせ、昂ぶる義憤に自らの命すら賭してこの誉れ高き殺害を実行できるであろうかっ!!一体どこの誰がこの崇高なる献身を己の使命と感じ全生命を捧げるであろうかっ!!誰がこの偉大な思想に邁進出来るであろうかっ!!いるはずがないんだ!!いるはずなんてないんだよ!!僕以外、僕を除くすべてが卑怯な臆病者で、くだらない獣に過ぎないんだからねっ!!僕がやるしかなかったんだ!僕がやるしか!それなのに世間の奴等は僕を犯罪人として刑務所送りにしようとしてやがる!絞首刑にかけて首の骨をへし折ろうとしていやがる!それが当然の報いだと訳知り顔でのさばりやがる!
 ああ!僕は、僕はこの屈辱的な現実を、恥辱極まりない己の醜態をっ!!これを、こんなものを否応なく受け入れねばならないんだっ!!何故なら僕は第一歩に耐えられなかったから!そして自殺することもできなかったから。ああ、なんていう卑劣漢だろう。ああ、なんていうシラミだろう。」

※こういった書き込みは勿論フィクションであるが、虚構であるからといってそれはただ実際でないことを意味するに過ぎない。つまり僕自身の現実を描写しようが、僕の内奥にあって表出された虚構を表現しようが、そこには如何程の差異も存在しないのだ。
 これはフィクションでこそあるが、僕のある種の感情、その断片であるという意味においては、間違いなく現実性を蔵している。

天才作家-芥川龍之介の文章-

  私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。

  公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日及び昨日の公衆にしてくの如くんば、明日の公衆の批判と雖も、亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後よく砂と金とを弁じ得るかどうか、私は遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。

 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が、結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられやう。成程ダンテの地獄の火は、今も猶東方の豎子じゆしをして戦慄せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我々との間には、十四世紀の伊太利なるものが雲霧の如くにたなびいてゐるではないか。
 況んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、うづだかい埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
 私は私の愚を嗤笑しせうすべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ点にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。
芥川龍之介『後世』

この感覚

ああ、この感覚!久しぶりに僕はこの研ぎ澄まされた、それは修行僧が修行中に陶酔に浸るかのような、感覚を覚えている!


  ずっとずっと、僕はこうだったじゃないか!10時間でも20時間でも、寝食をさえ忘れてひたすらに没頭する。世界に没入する。抽象的、観念的世界と合一する。これが、これが僕の在りよう!はは、何故に失念していたのか。

(断章)

キリストの幻影

「きみにこれを贈ろう。」

  出し抜けにその男は言った。
 突然目の前に出現したその男の唐突な、それでもどこか胸を穿つような声色に、僕は刹那、周章狼狽した。後、そんな己の態度を自嘲した。こんな男、こんな精神の脈動、そんなものは僕にとってもはやどうでもいいことだ。僕は今、悲しみの底にいる…。
 「あなたは何ですか、一体?」ぞんざいな口調で僕は問い返す。
 「これは私の書いた『カラマーゾフの兄弟』の続編だよ。ここにはアレクセイの現在が綴られている。」男はあくまで平静に、柔和な表情を保ったまま僕の問いかけなど無視するかの如く、馬耳東風の様で続ける。素性の知れぬ男の発言は、悲痛のうちに凍りつき、静止し、死の淵で無言の苦痛を甘受していた僕の心をさざめき立たせた。理性と絶え間なき肉感との不条理な律動が僕に、今、ここに立っている男の存在をわからなくさせていた。
 「……あ、あなたが?カラマーゾフ?な、何を…、一体…。」僕はその人物が何を発しているのか、その意味を皆目掴みかねていた。だが、認識の不如意は一瞬間の停止であり、僕はすぐさま現況自分が陥っている不可解な現実との折り合いをつけ分別をもって二の句を継いだ。だがその内容といえば、自分でも凡そ失笑を禁じ得ない程奇妙奇天烈なものだっただろう。こうして追懐する段になって僕はそう思っている。それでも、その時の僕はかかる心理に何故か些かの奇怪さすら覚えなかった。
ドストエフスキー!?貴方はドストエフスキー、フョードル・ミハイロビッチドストエフスキー本人なのですか?そうなのですか!?」僕は急き立てられる興奮を抑えきれずにそう叫んだ。
 「ああ、そうだよ。キリストさまがね、あのおかたが私をきみのもとへ遣わしてくださったのだよ。あのおかたはきみが絶望していることにとても心痛めておられたのだ。」
 その男、偉大なるロシアの文豪はゆっくりとした口調で僕に優しく語りかけ続ける。莞爾として微笑む彼の姿は、まるで彼の口にするイエス・キリストその人のようであった。
 「ああ!貴方は本当にドストエフスキーなのですね!!おおっ…おおっ!僕は、僕はどんなに貴方に会いたかったことか!どれほど渇望し、どれほどこんな出会いを夢みていたことか!これは奇跡なのですね!!あの、永遠なる神のお導きなのですねっ!!」
 「あのおかたは全てをみていらっしゃるのだよ。」彼は笑みを絶やさずに言う。ああ、なんて綺麗な、澄んだ眼をしているのだろうか!
 「アレクセイの編纂した司祭スヒマ僧ゾシマ長老の生涯はもう読んでもらえただろうか?あそこには長老の生涯を貫く彼の全思想、その精神の全てが描かれておる。そして、その崇高なる修道僧の教えは十三年後のアレクセイ、つまりこの『カラマーゾフの兄弟二部』の中で生きる現在の彼に確かに受け継がれているのだよ。偉大なる長老の魂はしっかりとアレクセイの内奥に刻みこまれているのだ。
 きみは長老の法話を覚えているかな?長老は俗世を大変に気にしておられた。教養ある知識人達が教会をかろんじ、修道僧の住まう僧院を疎む現状に大いに心を痛めていた。ロシアの修道僧達が皆怠け者で、社会の何の役にもたたない無益な存在なのだと彼らは罵るのだ。あの転換期にあった十九世紀中葉のロシアにあって、他人の労働で生きているようにみえる修道僧連中に我慢がならなかったのだ。長老は伝えたかったのだよ。修道僧達には孤独を愛し、それを自ら望み、静寂な闇の中で熱烈な祈りを捧げることを渇望する謙虚で柔和な者が非常に多いのだという事実を。そして、これらの人々からロシアの大地の救いが出現するのだということを。修道僧達は『その日その時のために』こそ修行を積んでいるのだよ。そしてその修行こそは、古来継承されてきた神父、使徒、殉教者達の似姿、キリストをそのまま保とうとする誠実なる努力の結晶なのだよ。」
 「それで、長老の法話とは何なのでしょうか?ゾシマ長老の憂いは、知識人達が修道僧の人を理解出来ていないということなのでしょうか?そして、それが彼の説教ということなのでしょうか?」
 僕はドストエフスキーの幾分速くなったその口調についていけなそうになったため、彼の弁舌の
間隙を縫って思わず口をはさんだ。<きっと、彼が妻アンナに聞かせた口述筆記はこんな感じだったのだろう。>
 「ああ。長老の憂いはそんな教養ある人々が修道僧達のような神へと至る道を捨てさり、科学を信奉し過ぎるところにあったのだ。長老は科学によって精神の世界が斥けられ、追い払われるこの近代の世界が、誤った自由を標榜しそれを高らかに宣言していることを嘆くのだ。」
 「誤った自由、ですか?」
 「そうだ。そしてその誤った自由の先にあるものとは、富める者にあっては孤独と精神的な自殺、貧しき者には妬みと殺人に他ならないのだ。その世界では人々はもっぱらお互い同士の羨望、色欲、尊大さのためだけに生きることになるのだ。」
 「長老の危惧は世相の荒廃にあったのですね。ああ、僕思い出しました。長老は確かにそんな事をおっしゃってました。長老は今の科学一辺倒の世の中に憤っていたのですね。」
 「いや、違うよ。長老は決して憤ってなどない。長老は全てのもの、全ての生命を愛しておられるお方なのだよ。彼はただそんな世界が悲しかったのだ。ただただ悲しんでおられたのだ。そして長老は修道僧の道を再び人々が知り、彼ら僧達を祈ってくれることを望んでいたんだ。それは、僧達が熱心に行う贖罪のための勤労、精進、祈祷などが真に人々を自由へと至らせてくれる道であって、人類の全世界的な兄弟愛の精神は、これら偉大な修行の中にしかありえないからなんだ。長老は神の造りしあらゆる創造物を愛せよと言う。それは文字通り、梢の先の葉っぱ一枚、路傍の石ころから神の忠実なる僕である私達人間まで、世界に遍く存在する全てのもののことを意味している。この長老の言葉には、あらゆるものを愛想という心のなかにこそ神様の御心を知ることが出来るのだという思いの表れがあるのだ。またこの心は科学に追従し、霊的な生き方を見失ってしまってはとても育む事は出来ないのだよ。そしてこれこそゾシマ長老の説法の本質なのだよ。誰もが全てのものに罪があり、だからこそ誰もがあらゆるものを愛そうとするのだし、許そうとするのだ。」
 僕はいつのまにか彼の言葉を涙を流しながら聞いていた。おお、この落涙よ!この感動のなんという法悦よ!
 「マルケルも、マルケル兄さんもそうでしたね!」
 「そうだね。マルケルもそうだった。後、彼は愛に包まれながら主の下へ還っていったんだ。そしてこれらマルケルやゾシマ長老の生き様や思いはこの本の中で生きているアレクセイにしっかりと受け継がれているんだ。十三年前の彼は心優しき善良な信心深い青年だったね。でもここで描かれる彼は世界を救うキリストになっているのだよ。アレクセイは絶望し、不幸のどん底にいる人達一人一人の涙を拭い、しっかりと抱きしめていったのだ。」ここでドストエフスキーは言葉を止め、今一度その優しげな瞳で僕を睥睨した。
 「……だからね、そんなアレクセイがこの書に刻まれているからこそ私はきみにこの『カラマーゾフの兄弟二部』を渡したかったのだよ。私はきみが小生の書いた作品を愛してくれていると知っていたから。そう思っていたとき、そしたらば、あのおかたが私をきみの前に遣わしてくれたのだ。『汝、それほどに求めるならばいくがよい。私は今一度汝に肉体を与えよう。さあ、いくがよい。今一度現世に行き、一人の青年を救ってくるがよい。』と告げられたのだ。……ようやく私はこの書を授けることができる。世にでることのなかったこのアレクセイの書を。きみの絶望は、その深い悲しみはアレクセイの魂と感応することだろう。やがてその苦悩は浄化され、苦しむ他の人達を今度はきみが癒すだろう。」
 涙はもはや止め処なく流れては眼窩に充溢した。歓喜が僕を支配し、滞っていた身体の全細胞は再び躍動しだした。僕は声を詰まらせながら言った。
 「じゃ、じゃあ、ア、アレクセ、アリョーシャは、皇帝を、ツァーリを殺さないんですね!その、コ、コーリャに命じて、その……」
 「アレクセイは誰も殺しなんかしないし、勿論誰にもそんな事指示しないよ。」
 嬉しかった……アリョーシャは社会主義者の革命家になってテロルを起こすなんてしなかったんだ。
 「…さて、私はそろそろ神の地へと戻らねばならない。もう時間がなくなってしまった。きみが私の『カラマーゾフの兄弟二部』を読んで少しでも苦しみが軽くなってくれるなら嬉しいよ。」
 この胸に寂しさはなかった。だってドストエフスキーは僕に会いに来てくれるより以前から僕を見続けてくれていたのだから。そしてこれより未来も彼は確かに僕を見守ってくれるのだと思っていたから……。僕の心にはドストエフスキーの精神が存在している。それはゾシマ長老の精神が永遠にアリョーシャのなかで息衝いていくように、僕の方寸で久遠に脈動していくはずだ……。
 僕は力の限り叫んだ。
 「最後に言わせてください!フョードル・ミハイロビッチドストエフスキー!貴方は立派でした!貴方は実際に多くの人々を救ったのです!そして今、貴方の理念は時を越え、国を越え、世界中の人々に受け継がれています!貴方は偉大だったのです!!真に偉大だったのですよっ!!」
 ドストエフスキーは瞑目していた。そして手を組み、それを眉間にくっつけた。それはまるで祈っているかのようであった。
 「ありがとう……。小説を、書いたかいがあったよ。」そう言って彼は消えていった。。。