harustory’s diary

日々の思索、その物語

ドストエフスキー案内1-「5大長編概説」

「五大長編」と書きましたが、『未成年』に関して再読をしておらず論考が現時点で危うい為に割愛します。人物論としてヴェルシーロフはとりあげたかったのですが。

ドストエフスキーは私が「最も好きな」作家です。one of themではなく、最上の作家です。ゼミも卒論もドストエフスキー研究です。『罪と罰』は中学生で読破しました。


Ⅰ、『罪と罰
 
  この作品には一種「悪魔的」とも形容されるような、読む者の心を惑溺させ、鷲掴み離さない蠱惑的魅力が詰まっている、そんな形容をしてもそれは過言ではないでしょう。
  作品の主軸は「ラスコーリニコフの絶望と復活」にあるでしょう。そして、その復活にソーニャという人物を配し、聖書の「ラザロの復活」に重ね合わせることで物語を重層的(メタ領域の次元)に昇華させています。
罪と罰』には、極度の貧困から酒に溺れ、娘の「純潔」さえも金に替えてしまいながら「どこにも行き場のないということがどういうことかわかりますか」と訴えるマルメラードフ。シニシズムに満ちた悪魔的なスヴィドリガイロフ。マルメラードフの後妻であり、極度の貧困に自尊心を深く傷つけられながらも高貴な魂を失わないカチェリーナ。「私はもう終わった人間なんですよ」という科白が印象的な敏腕な予審判事ポルフィーリー。他にも、ラズミーヒン、ドゥーニャ、プリヘーリヤ等々、考察を促す重要人物達が数多く登場しますが、ここではラスコーリニコフと敬虔なキリスト教徒たるソーニャ、この二人の関係に絞って「魂の救済」という観点から概説していきます。
 ソーニャの存在はロシアの言葉でいうところのいわゆる「ユローディヴィ」(痴愚者。狂信的、陶酔的、白痴的な神がかり的な存在。ドストエフスキーはこのユローディヴィに対して崇高の眼差しを持っており様々な作品の中で登場させています。)であります。ラスコーリニコフ無神論的な思想、それはロシアの大地から切り離されてしまった者(分裂<ラスコール>したもの)と対立する、母なるロシアそのものの象徴としてソーニャは創出されています。このロシアの大地の具象的存在者としてのソーニャに関し、井桁貞義氏は著書『ドストエフスキー言葉の生命』のなかでソーニャが身にまとっている緑色のショールに注目してシンボリックな視点から考察しています。

  「(中略)小説の終幕近く、殺人者は罪を持ちきれず、自白を決意してソーニャの下に赴く。ソーニャは糸杉の十字架を彼にかけ、自分はリザヴェータからもらった銅の十字架をかけてセンナヤ広場に向かう。その時彼女が肩にはおるのがあの緑色のショールである。そして幕切れ、シベリアのイルトゥイシ河の岸辺での二人の復活の場面でも、ソーニャが緑色のショールを被っていることを作者は描き忘れてはいない。そうしてみると、わずか三回だが、(「三」が「父と子と聖霊」を示す聖なる数字であり、何事かの成就を表すシンボルであることを思い出そう。予審判事ポルフィーリィはラスコーリニコフと三度会って自首を促すのだ)小説に現れるこの緑色のショールはソーニャ像と分かちがたく結び付けられていることが感じられるだろう。
そんなことが気になったまま、私は東京で開催された「ロシア・イコン(聖像画)展覧会」で、ああ、これか、と思ったのだった。ロシアの聖母像のいくつかが、緑色のショールをかけているのだ。そのイコン展のプログラムには「緑は永遠の生命を表す」とかかれていた。緑はヨーロッパ文化の伝統の中では、清浄を表すシンボルであり、豊饒、新鮮さ、希望、自由、喜びのシンボルとなり得る事もわかってきた。(後略)」

 ソーニャのラスコーリニコフに対する盲目的かつ献身的な愛は彼を復活へと導くのですが、ソーニャの愛というものは積極的な、ともすれば教義的になりかねないような主体的愛というものではなく、受身的なそれであります。彼女は彼をただただ見守り、彼の思想をありのまま彼女の中に取り入れ、それを受け入れながらも、キリストの愛、神の愛から分離してしまった彼への憐憫を端緒とし彼を懸想していきます。やがて受け身的なソーニャの存在はラスコーリニコフを大地に接吻させるに至るようになります。ラスコーリニコフのビルドゥングス・ロマンのみならず、ソーニャも物語の中で主体的な存在として振る舞っていくのです。
 さて、彼女もまた罪深き者でありました。家族の為に自己犠牲的な「自分殺し」を行った彼女もまたラスコーリニコフ同様、社会から「踏み越えたもの」であり切り離されたものなのです。ユローディヴィである彼女にそのような立場を与えたドストエフスキーにこの作品の深遠さの一つが伺えます。

Ⅱ『白痴』

 「無条件に美しい人間を創造しようとした」
 上記ドストエフスキーの言葉が有名な『白痴』であります。この作品の主題のひとつは、現代ロシア社会に無条件に美しいイエスキリストのような存在が登場したとしたら、(その存在は「白痴」の主人公ムイシュキン公爵。白痴であります。つまり彼もまた「ユローディヴィな存在」であります。)その人物は、この現代ロシアの混迷の中では白痴のままで在りつづけるほかない、というものです。
 小説の終盤、ロゴージンがナスターシャを刺殺する場面は、涙する彼の前でその涙をそっと拭うムイシュキンの行為を「最も美しい場面のひとつ」であると感じます。そして、その後「文字通りの」白痴に戻ってしまう彼にこの作品の悲劇性が現れています。

 やはりこの作品においても魅力的な登場人物たちの群像劇を考察したいところですが、今回は「近いうちに絶対的に自分が死ぬ」ということが確信的であることに絶望し、世界をニヒリスティックに眺める聡明な青年イッポリートの作中のエッセイ「我が必要欠くべからざる弁明」を中心にした、彼の人生観、思想をまず取り上げたいと思っています。(イッポリートの引用は後日。)

 次に、ハンスホルバイン(子)の『死せるキリスト』をみて「俺はこの絵が大好きなんだ。!」とムイシュキンに語るロゴージンとムイシュキンの対蹠的な生き方の考察。ロゴージンはニヒリストであり、無神論者であります。上述した、死を宣告された青年イッポリートはこの『死せるキリスト』に現れるまったくの「完全なる死」を前にして、なぜこのような死体の前で、イエスの弟子達は彼が復活するなんて信じることができたのだろう、と考えますが、まさしくロゴージンも同じような問いが彼の発言から読み取れます。ここでそのロゴージンとムイシュキンとのやり取りを紹介してみます。

 「ところで、レフ、ニライチ(ムイシュキン)、俺は前からあんたに聞きたいと思っていたんだ。あんた、神様を信じているのかい、信じていないのかい?」
何歩か歩いてまたロゴージンが言った。
「君はなんて変な聞き方をするんだ。それに…その目つきもだけれど!」
と公爵は思わず言ってしまった。
「あの絵をさ、見ているのが好きなんだ、俺は」」
ちょっと黙ってから、まるでまた自分の聞いたことを忘れたように、ロゴージンはぶすっとした声で言った。
「あの絵をだって!」
予期しなかった考えに突き動かされて、公爵は思わず声をあげた。
「あの絵をだって!人によっては、あの絵のせいで、あった信仰も失われかねないというのに!」
(『白痴』第二編四)
(注)実際にドストエフスキーは旅行中に訪れたドレスデンの美術館の中でこの絵を見ておもわず何時間もそこに立ち尽くしてしまったといっています。おそらく、彼の中でこの絵は圧倒的な存在感を持っており、終生彼を悩ましつづけた信仰と無信仰の問題に、何かしら脅威的な超自然的な負の力を与えたものと思われます。

Ⅲ『悪霊』

  かつて日本赤軍が自分達の仲間を疑念から射殺したとき、また近年ではオウム真理教がそのカルト的なファナティックな思想を反社会的な虐殺という行為で示したとき、ドストエフスキー評者はこの『悪霊』を現代の預言書として言及してきました。
 なるほど、確かにこの作品においては、豚の中に入った悪霊どもが湖に落ちて溺れ死に、悪霊を取り除いてもらったものはイエスの元に座して救われるという「ルカ福音書」をエピグラフとして用い、西欧の近代思想に溺れ、そうした思想にとり憑かれた革命家たちが悲劇に見舞われ、残ったロシアの人々は浄化されキリストの下に生きる、という明確なヴィジョンがありますが、私はここではこの作品に関し、そうした、いわば俯瞰的な視座からの考察はすべて排し、ドストエフスキーが生んだ最も深刻なニヒリストともおもわれるニコライ・スタヴローギン(ギリシャ語で「十字架」を意味する「スタヴロス」からとられています。)およびその教育者かつ養父であったステパン・ヴェルホヴェンスキー、さらに独自の人神思想から神への挑戦を試みるキリーロフを主に照射してミクロな視座から論じていければと考えています。

 ニコライ・スタヴローギン
「教唆する」この言葉は『悪霊』を考える上で欠かせない用語ですが、広くロシア文学、そしてドストエフスキーに関しても専門的に研究されておられます亀山郁夫氏はこの「教唆」という概念を「使嗾」(しそう)という概念を使い説明しています。
 
 『悪霊』の主題を一言で表すならば、それは「使嗾の劇である」私も亀山氏同様そう言えると思います。革命運動の虚無と愚を中心的テーマとし、その前提から、この小説でドストエフスキーは神と人間の関係を深く念頭におくことを企図していました。
 
 「この小説には、二人の「神々」が登場します。すべてを可能ならしめる地上の神ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと、一切を沈黙したまま見下ろす天上の神ニコライ・スタヴローギンです。二人に共通するのは使嗾する権力です。地上の神は現実の「変革」を志向するのに対し、天上の神は暗示によってフィフティーフィフティーの可能性に賭ける。(中略)そしてこの使ソウとは、じつは革命が必然的に抱え込まなければならない力学の本質なのです。(後略)」(『ドストエフスキー父殺しの文学下』NHK出版)

 亀山氏の論は、『悪霊』がその作品中に包含させる悪魔性を的確かつ端的に表しています。ピョートルに関してここでは詳述しませんが、確かに彼はあくまで「地上的」な存在に終始しており、その生き方はあくまで俗的な類のものです。革命によってテロルによる政府転覆の実現を標榜させながら、その根底にはあくまで虚無的な退廃した世界像しか見ていない彼の心は、その行動の本質に、革命を唆し地上の秩序を破壊せんとする子供じみた精神がみえます。

 一方スタヴローギンはあくまで「天上的」な存在です。ピョートルをして「あなたがいなければ私はガラス瓶の中の蝿です。ガラス瓶の中の理念です。」と言わしめた彼は、そのピョートルをはじめ様々な人物に影響を与えていきます。シャートフは彼の思想の中にロシア民族の誇りと世界平和を賛美の心を見出し、その考えに打ち震えながらも、彼の中にある虚無を発見し絶望します。
 キリーロフは彼の無神論に惹かれ、神が存在しないなら自らが神にならねばならない、という独自の哲学を掲げます。「苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる」とし、それを証明するために自殺する彼もまた、殺されたシャーとフ同様悲劇的な人物です。
 ピョートルが現実的で革命に向けて実際に奔走していきながら人々を扇動していくのに対し、スタヴローギンはあくまでそういう地上の(下界の)出来事の一つ一つをより高みから見下ろし、ピョートル達の行動によってもたらされる事件を楽しむために、それを促す天啓のようなものを与えていく存在です。(たとえばキリーロフに関しては、スタヴローギンは思想を吹き込み、破滅へ導くものですが、ピョートルはその自殺の場で「早く死ね。」と直接的に促すものです。)
かかる傲慢な神、十字架を背負いながらその十字架そのものを侮蔑する神スタヴローギンこそ『悪霊』の神髄であるでしょう。
 それにしても亀山氏の論には多分に影響されました。

Ⅳ『カラマーゾフの兄弟
 
 ドストエフスキー畢生の大作。世界文学史上に燦然と輝く名作。古今東西幾多の賢人がこの作品に感銘を受け、崇めてきました。かの天才哲学者ウィトゲンシュタインはこれを50回読んだという逸話は有名です。実に多くの思想家、芸術家、科学者…世界の知識人が雷光に打たれたかのごとく、この作品を絶賛します。金科玉条とし、絶対的な力をもつ現代の聖書、それこそが『カラマーゾフの兄弟』でさります。

 「カラマーゾフ」という言葉の由来はトルコ語及びロシア語の合成語であり、「黒く塗られたもの」という意味です。
この作品は壮大な人間群像劇であり、そこには様々な主題が鏤められています。正に集大成といえますが、それだけに、未刊となってしまった第二部があまりに惜しまれます。
 『罪と罰』において萌芽的な形で示され、『白痴』『悪霊』『未成年』へと続くドストエフスキー後期作品群を貫く「信仰、不信仰の問題」はこの『カラマーゾフの兄弟』において集約されます。ロシアの民衆とともにあり、ともに生きようとしたドストエフスキーの真摯で切実な姿がこの作品に現れているのです。


アリョーシャ・カラマーゾフ
 僕は文学史上、このアリョーシャ・カラマーゾフこそ最も美しい人間だと感じています。
 『カラマーゾフの兄弟』はもともと二部構成で構想されていました。一部刊行後ドストエフスキーが急逝されたため、第二部は世に出ることはなかったのですが、本来このアリョーシャは第二部でこそ主体的な存在として躍動することが作者の中で期待されていたのです。そのためか、第一部ではその役割におおきな能動性が与えられてはいません。
 ゆえに、アリョーシャは他のドストエフスキーの人物達に比べて「魅力に欠ける」といった態の評価をもらうことがあります。確かに第一部において際立った存在感を放っているのは、その愛憎劇に人間精神の崇高さと醜悪さをみるドミートリーやフョードルであったり、信仰と不信仰の果てに「父殺し」(<父>とはメタのレベルで神を殺すことがモチーフとしてある)をめぐり苦悩するイワンとスメルジャコフであったり、ソロヴィヨーフの神秘観に母なるロシアに降り注ぐ光明をみたドストエフスキーがその神秘思想をたくしたであろうゾシマであったりします。
 しかし、彼らの中で蠢くその「黒く塗られた」魂が破裂しそうになるとき、その魂を包み彼らを社会との紐帯の中に結び付けておく役割を果たしているのはまさにアリョーシャなのです。(アリョーシャはゾシマに対しても感化されるだけでなく、自ら感化した存在でした。)
 アリョーシャは決して観念的な聖者などではありません。彼もまた「信仰と不信仰の狭間」にゆれるドストエフスキー的人物なのです。(ドストエフスキー的人物とは、意識のなかに際立った二重性が顕現される人物であり、その意味では極めてロシア的人物像であるといえます。アリョーシャは際立った二重性こそ示していないものの、作者がイワンやラキーチンの口から言わせているように「カラマーゾフの血」を受け継いだ人物として描かれています。)


〇イワン・カラマーゾフ
 「神の作った世界を認めないんだ!」というイワン。
 イワン・カラマーゾフの叫びから私は彼の切実なる魂の叫びと真摯な善良さを見出します。彼は決して無神論者ではないし(「神はいない。」という言明がないというわけではありません。実際フョードルとの問答では「神はいない」と語っている。)、スメルジャコフが恣意的に援用する「(神がなければ)すべては許される」で安易に糾弾されるべき人物でも決してありません。
 「プロとコントラ」の章の中で彼は次のようにアリョーシャに語りかけます。
  
  「あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考え出すべきであるS'il n existait pas Dieu , il faudrait l'inventer.(ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、といったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、不思議でもなければ別段驚くべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入り込みえたという点が、実に驚くべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。(後略)」(原卓也訳 新潮文庫)

 この言葉はヴォルテールの言葉として有名であります。ヴォルテールはドイツ哲学者ライプニッツの予定調和説(現実の世界が神によって取捨選択された後の最良のものとして現れたものだというもの。)を批判しています。まったくの偶然から起きる不幸な災害や不幸、不遇な境遇にいる人々がこの世界には溢れているが、ライプニッツはそれを忘却している、というわけですが、イワンの言う人間の邪悪性における私見もこのヴォルテールの考えが起因となているものだと思われます。


回想1

17歳の回想。


  これだけは書いておかなければならないと、そう思った。
  いつだって、僕には死が纏わりついていた。苦しく、不吉な予感が僕を支配していた。それでも、僕は生きてこられた。理由は2つある。
・物質的に生きられる環境が与えられていたから。
・穴蔵に閉じこもっていられることが許されていたから。

  今、僕には2つともがなくなりつつある。生きるならば、どうしたって学校に行かなければならない。そして、今の学校は、どんなに苦しくともすぐにやめるわけにはいかない。
  しかし、ありえないほどの苦しみを抱えながら、どうして人は生きることができるのであろうか。いわんや、勉強なんかすることができるのであろうか。
  それでも、逃げられない。逃走する場所なんてない。僕は、もはや親鳥の庇護を離れ、独り生きていくことを余儀なくされた小鳥。

  予感が怖い。この感覚に戦慄する。獰猛な社会に喰われ、絶望の啼声をあげる僕の姿。
  僕には死が纏わりついている。容赦なく進んでいく時間をこれほどに恐怖する自分がいる。人は人生の袋小路に入りこんでしまったときに自死するのであろう。もしくは発狂。それはつまり、「逃げられない」ということ。
  ああ、神よ!僕はあなたを敬っていた。しかし、今問いたい。汝は何故僕にこれほどの苦難を与え続けるのか。それとも、僕はまだ苦しみ足りないというのか。神よ!これは僕の宿世だというのか。これは僕の罪なのか。
  言葉を、あなたの言葉をください!僕にはわかりません。どうしたらよいのかわかりません。
  僕はエゴイストです。ですが、僕は僕を許容できないんです…。認めてあげられないんです…。

対話篇

  「以前、先輩はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を例に挙げ、いきなり難解な原典の訳本にあたるのは時に危険(それが婉曲的な意味であったしても)という旨を仰っていたと思いますが、それについて一寸申し上げたき事があります。

  自分はこれまで何冊か新書の哲学史や思想家の解説書を読んだのですが、これらを読んでいるとき、著者が『これがAだ』といったものを『これがAであるのか。』と、その概念を只々受け止めているだけというような感じがしました。その時に、自分は出し抜けにこう思い至ったのです。『本当にAについて考えるためにはAそのもの、それはAなる概念を表出した原作者の著書自体に触れるべきなんじゃないか』と。そうして、実際に原著の訳本を読んでみたわけですが、Aに関して殆ど理解できない自分を痛感しました。そこで、解説書のありがたみを知ったのですが、それでも解説書で得られるA像は解説書の著者のものでしかありえないのではないかという考えは残っています。

  もちろん、翻訳本にあるAの概念も、著者によるAの像であり、例えば『実存』という概念一つをとってみても、そこに神や超越者の姿を思い描き、それを前提としたキルケゴールヤスパースらと、神や超越者の姿を想定しなかったハイデガーや、その無神論的実存思想を継承したサルトルらとでは差異があるように、普遍的概念ではない事は理解しています。それであったとしても、解説書の像とは大きな差がある、そこに原作との非連続性を覚えてしまうのです。

  長くなりましたが私が質問したい事は、哲学についてのある概念や思想について解釈を得ようとする時、自分でそれが見つけられないようなら人の解釈をそのまま持ってくることを認めるべきなのかということであります。」


  「原作者の思想が出来うる限り忠実に再現されているであろう翻訳本と、それを解説、批評した評論家のそれとの間にある懸隔、及びそこから生じる解釈の一元化に対する疑義は、学問を志向する人が折に触れては考えるものだと思います。

  芸術もそうですが、誰かがその作品を鑑賞し感じた解釈は、本質的にありうべき可能性の一つとして受容されなければなりません。何故ならば、一つの思想なり芸術なりに一つの固定化された解釈が一対一で示されるならば、思想や芸術はその拡がり、多様性を失ってしまうからです。

  例えば、カフカの『変身』では、主人公グレゴール・ザムザが突然毒虫に変化してしまいますが、あの作品の主題は、近代個人主義により実存的存在である固有な存在としての人間が社会によって孤絶されてしまった喪失感を、いきなり人が巨大毒虫に変容してしまうという不条理性のアレゴリーによって示した作品であります。これはカフカ文学の通説的解釈の簡単な紹介となるでしょう。

  カフカの作品にみられるような表現主義文学に対する解釈のかかる権威的傾向性は、しかしながら、"作品そのものを味わう"という小説を読む行為の原点を忘れさせては、読者をその権威性の下に誘導せしめては作品それ自体から離れさせてしまう懸念があります。それはいうならば"物語としての文学"が消失してしまう事にも敷衍される現象です。

  哲学書も事情は変わりません。その意味において、キミの原典への拘り、そこにこそ基礎を置かんとする態度は学問的態度として純粋であります。

  そうでありながらも、哲学書は、思想的な錯綜と概念の不文律が殊に中世あたりから露呈しはじめています。それは同時に、日本語としての翻訳を能はしめない次元にまで哲学が抽象化、別言すれば形而上化されてしまったとさえ言えます。ここには、西洋の言葉と日本のそれとが、文化背景的に異質である故に顕在化された言語性質的問題もあります。また、キリスト教に由来され、キリスト教支配下で形成されていったヨーロッパ思想と、近代化の過程で形而上的な存在への認識が欠如された日本思想との乖離も存しているでしょう。

  そうした事を考慮すると、原典訳本に最初からあたるのはやはり"危険"なのです。真面目な人ほど。真面目であればあるほど、何とかそこに自分なりの意義、解釈を見出そうと腐心し、畢竟、牽強付会の陥穽におちて言ってしまいやすいのです。やや諧謔調に、また比喩的に言えば、哲学を学ばんとする者は、正にその哲学自身の手によって殺されるかもしれないのです。

よって、原典の翻訳本は、基本的にその大半は最初に手をつけない方が無難です。プラトンデカルトショーペンハウエルニーチェ後期、サルトルあたりは翻訳本から読みはじめてもよいでしょうが。


  「回答ありがとうございます。

  ところで、世に解説書が存在するということは(元をたどれば)あまりに難解なものでも自力で解釈をした人がいたということになりますが、その人達と同じ姿勢で、つまりは同じ読解のベクトルで向き合う必要はないということでしょうか?」


  「その人達を意識し、真摯赤誠なる姿勢で歴々の研究者達の解釈なりと、(それは対話する感覚であるように)読むことは肝要なことです。何故なら歴々の方々も、同じように昔の歴々の研究者達の解釈を通して、自分にとっての『パンセ』であったり、『存在と時間』であったりを見出してきたからです。評論書を原典に対する評論書とみるのではなく、一つの独立した読みものと捉えるといいかもしれませんね。」

Crime and Punishment

死のうと思った。それは「恥辱」に耐えられないと感じたから。

 彼が感じた恥辱がなんであるか、僕は今ここでそれを赤裸々に告白したいと思う。それが、彼の感情を解き明かす事は、そのまま僕の苦悩を、呪われし忌々しい懊悩を、解明することにもなるのだ。
 

  彼はずっとずっと踏み越えたかった。それは、世界の秩序からの踏み越え。この世の論理からの踏み越え。そして、社会の不正からの踏み越え。此岸と彼岸の境界線を越え、神の作りし世界を呪い、自らが神たる者として新しい調和的世界を、水晶宮を築こうと彼は思った。

  そのための第一歩として彼は決意した。"あいつ"を(=社会のダニ)殺害することは、彼にとって新しい世界建設の記念すべき一里塚となるべきものであったはずであったから。前途は洋々に広がり、彼には無限の可能性が溢れているはずであった。
 

 彼はダニを潰した。ダニをプチっと握りつぶした後、彼に襲い掛かってきたのは圧死され飛び散ったダニの汁。体液。それが彼の身体に付着し、こびりついた。死臭が漂う。「何故殺した!」そんな呪詛のような響きが、声なき声が、腐乱臭を嗅ぐような猛烈な吐き気となって彼を苦しめる。
 「認めないっ!認めないっ!!僕はあの害虫の存在など歯牙にもかけてやしないっ!生き返ったらもう一度殺してやるっ!何度だって何度だって、屍が腐って腐って腐りつくすまで僕はアイツを屠り続けてやるっ!」

 嘔吐させる様な亡者の気配は彼を苛立たせる。 
 「それより彼女だ。」彼はあの時思った。「どうして、どうしてあの場に居合わせた?なんでいるはずのないお前があの時間に帰ってきた?」彼は苦悶した。彼は彼女達のような善良な人間を救おうとして、そのためにこそ凶刃を振り上げたから。

 彼の第一歩は儚かった。勇壮で偉大なはずの栄光へと続く記念すべき一歩、踏み越えは光輝なる道程などではなく死の淵への滑落であった。血みどろの殺人劇は死の行進への第一歩となり、忌避すべき醜悪な現実であった。
 彼に訪れた諦観。それは際限のない虚無が十万年の十万乗も連綿と続くような無辺法界。どこへいってもあてのない完全な無の世界。絶無。彼はこのとき人類との断絶を、絶対の孤絶を確かに「感じた」。論理ではない確かな感触。生理的な感覚が彼に事の次第を絶望的に明白にさせた。
  ただ踏み越えることのできなかったという屈辱感をして彼に苦悶を与えせしめている、そう、彼は気がついているた。

  あのダニの腐臭を嗅ぎつけてしまう。そんな匂いなどするはずもないのに。予期しなかった第二の殺人。慈悲深い彼女の殺害に良心の呵責を感じてしまう。きっとこんなことなど青銅でできた人間であれば微塵も気にすることはないというのに。個の犠牲など全体のために必要不可欠だというのに。(ナポレオンやマホメッドであればきっと何の呵責すら覚えることはなかったであろう。彼らの意志の前にあっては良心の呵責などは粉塵の如く吹き飛ばされていくだけだ。)ああ、こんなことは当の昔に認識していたはずではなかったのか。
  そうして彼は、そんな自分がただの美的しらみに過ぎないと実感する。所詮自分も大多数と同じしらみでしかなかったのに己の力量を超えた願望を抱いたせいであまりに陋劣な結果を甘受することとなった彼は、その矮小で惨めな性質のせいで、「血を流す」という審美的に美しくない行為をしてしまっただけに、圧倒的多数のしらみ達よりも数段卑小な存在であった。
 彼にとってこの事実は「恥辱」以外の何ものでもない。思想自体の崇高さ、完璧さに反比例するような行為の帰結の拙劣さ、汚らわしさは、その目的が純潔な志と遠大さに縁取られているだけにとても忍従できるようなものではなかった。
 実際これは恥辱の極致であった。それは彼が「ただ殺人を犯した。法に背いた。」というその「事実」それのみによって、ただそのことだけによって「犯罪者」として社会から白眼視されるという現実が厳然と聳え立っているからである。そいつが堂々と、鹿つめらしく屹立しているからである。このしたり顔で得意げな気色をぷんぷんと臭わす世間というやつらは、社会の悪を黙認し、常に傍観者たるをやめない俗物、愚か者達の群れに過ぎないくせに、ただ「法に触れた」というその一事でもって、彼を社会のならず者だと非難し、罵り、嫌悪し、一段下の人間として扱うに違いないからである。
 「おおっ!こんなこと許されていいはずがない!」彼は憤慨する。

 「誰が、僕以外の一体誰が、この汚濁に塗れた社会を変えてやろう、そう高邁な正義感から瞋恚の炎を滾らせ、昂ぶる義憤に自らの命すら賭してこの誉れ高き殺害を実行できるであろうかっ!!一体どこの誰がこの崇高なる献身を己の使命と感じ全生命を捧げるであろうかっ!!誰がこの偉大な思想に邁進出来るであろうかっ!!いるはずがないんだ!!いるはずなんてないんだよ!!僕以外、僕を除くすべてが卑怯な臆病者で、くだらない獣に過ぎないんだからねっ!!僕がやるしかなかったんだ!僕がやるしか!それなのに世間の奴等は僕を犯罪人として刑務所送りにしようとしてやがる!絞首刑にかけて首の骨をへし折ろうとしていやがる!それが当然の報いだと訳知り顔でのさばりやがる!
 ああ!僕は、僕はこの屈辱的な現実を、恥辱極まりない己の醜態をっ!!これを、こんなものを否応なく受け入れねばならないんだっ!!何故なら僕は第一歩に耐えられなかったから!そして自殺することもできなかったから。ああ、なんていう卑劣漢だろう。ああ、なんていうシラミだろう。」

※こういった書き込みは勿論フィクションであるが、虚構であるからといってそれはただ実際でないことを意味するに過ぎない。つまり僕自身の現実を描写しようが、僕の内奥にあって表出された虚構を表現しようが、そこには如何程の差異も存在しないのだ。
 これはフィクションでこそあるが、僕のある種の感情、その断片であるという意味においては、間違いなく現実性を蔵している。

天才作家-芥川龍之介の文章-

  私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。

  公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何に理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日及び昨日の公衆にしてくの如くんば、明日の公衆の批判と雖も、亦推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代の後よく砂と金とを弁じ得るかどうか、私は遺憾ながら疑ひなきを得ないのである。

 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日の私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日の私の眼ではない。と同時に又私の眼が、結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事も確である。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられやう。成程ダンテの地獄の火は、今も猶東方の豎子じゆしをして戦慄せしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我々との間には、十四世紀の伊太利なるものが雲霧の如くにたなびいてゐるではないか。
 況んや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍の美にして存するとするも、書を名山に蔵する底の事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、うづだかい埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。
 私は私の愚を嗤笑しせうすべき賢達の士のあるのを心得てゐる。が、私自身と雖も、私の愚を笑ふ点にかけては、敢て人後に落ちやうとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋々たる私自身の意気地なさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。
芥川龍之介『後世』

この感覚

ああ、この感覚!久しぶりに僕はこの研ぎ澄まされた、それは修行僧が修行中に陶酔に浸るかのような、感覚を覚えている!


  ずっとずっと、僕はこうだったじゃないか!10時間でも20時間でも、寝食をさえ忘れてひたすらに没頭する。世界に没入する。抽象的、観念的世界と合一する。これが、これが僕の在りよう!はは、何故に失念していたのか。

(断章)