harustory’s diary

日々の思索、その物語

夏目漱石『明暗』

夏目漱石未完の大作『明暗』について。
 

   この作品、主人公は津田という名である。そして津田の女房の名はお延。僕はこのお延の境涯に最も共鳴する部分があった。同時にお延にこそより漱石的主題が色濃く現れているように感じられる。その主題とは「近代的自我」の問題である。
 ここで近代的自我に関してまず一言しておきたい。近代以前、日本は共同体的な繋がりのなかで生きていた。しかし、時代が移り、明治へと年号が変わったとき、その共同体的世界体系は大転覆を起こした。人間は「個と個」という分裂した孤独的な実存を迫られた。その不安する意識を簡単に「近代的自我」と提起してよいと思う。
 このような個我(=個人の自我)の問題を近代精神の暗部として透徹しながら見つめつつ、悲壮なまでに追及していった作家こそが夏目漱石その人であった。本稿『明暗』含め、『行人』や『こころ』等は、かかる問題意識の下に著述された代表的な作品である。
 
 以上のことを踏まえ、それでは作品そのものをみていきたい。『明暗』は、津田とお延の不安定な夫婦関係を通じて自我とエゴイズムの密接な連関を示している。<津田は我執のままに、己の憧憬たる清子という女性を求め伊豆へと赴くなかで最終的に「則天去私」の理想的境地を見出す。>研究者の作物にはこう評しているものが散見される。この妥当性に関しここで言及することはしないが、人口に膾炙した「則天去私」のテーゼがこの作品の色彩として支配的であると僕自身は考えない。
 『明暗』はこれまで、ともすれば主人公のみが担ってきた自我とエゴイズムの意識を各々の登場人物それぞれが胚胎している。それはさながら、肥大化された近代的自我の一大交響楽のような調べであり、このポリフォニックな響きこそが『明暗』の最大の特徴でもある。津田、お延、小林、お菊…、いずれの人物も自らの心の淵源に孤立した自我像を抱えそして懊悩している。これは漱石の人間観察の鋭さに驚嘆した芥川龍之介正宗白鳥の評からも窺える。それでも『明暗』を近代文学史における自我の問題として捉えながら位置づけるとき、その特質が明瞭に表現されている人物はお延なのである。だからこそ、僕はこの女性に惹かれたのだろう。
 
 お延は津田が自分を愛していないのではないかという疑念に駆られる。それは夫の書斎にあった妙な手紙や小林の意味深な言葉によって昂進されるのだが、この疑心暗鬼する意識の流れは近代実存主義の負の実像を露呈させている。つまり、漱石は自意識の揺動するお延の姿を細叙することにより共同体的な心性を喪失してしまった近代社会とその社会が齎した近代的自我意識が抱える苦悩の全貌を現出させたのである。『岩波講座-文学』所収論文に於いて磯貝英夫はこう述べている。「この『明暗』の世界は、突出する個と個が妥協点をさぐる、西欧ふうの近代的個我の世界と言ってさしつかえないものである。」彼はここで「西欧ふう」と形容するが、なるほど正鵠を射た指摘と言えるかもしれない。西欧の近代的自我とは絶対的価値基準たる神の観念が揺らぎをみせた時代の人間が生きる実存的生そのものであるが、このことは国家や村落共同体に帰属しながら自己を見出していたこれまでの日本人の意識が地すべりをみせた近代、より正確をきせば日清戦争以後の日本とその基底層に於いて径庭しないものと言えるからである。
 
 明治近代化の過程で様々な作家が自我の問題を扱ってきた。しかし漱石以前の近代文学は自我を国家・社会との非分離な関係性から叙述するものであった。その一方で漱石の作品は徹底した「個」の思想であり、共同体的基盤から懸隔した実存主義的文学なのである。『行人』の一郎は妻の愛をどうしても信じることができない。彼は自己のみの世界で孤絶し懊悩しながら「神は自己」であり「僕は絶対」であると考える。彼の思想は漱石の果て無き苦悶の声であり、同時に後期漱石文学全体の光源である。そしてお延もまた一郎の情念を継承する存在なのである。