harustory’s diary

日々の思索、その物語

ドストエフスキー案内1-「5大長編概説」

「五大長編」と書きましたが、『未成年』に関して再読をしておらず論考が現時点で危うい為に割愛します。人物論としてヴェルシーロフはとりあげたかったのですが。

ドストエフスキーは私が「最も好きな」作家です。one of themではなく、最上の作家です。ゼミも卒論もドストエフスキー研究です。『罪と罰』は中学生で読破しました。


Ⅰ、『罪と罰
 
  この作品には一種「悪魔的」とも形容されるような、読む者の心を惑溺させ、鷲掴み離さない蠱惑的魅力が詰まっている、そんな形容をしてもそれは過言ではないでしょう。
  作品の主軸は「ラスコーリニコフの絶望と復活」にあるでしょう。そして、その復活にソーニャという人物を配し、聖書の「ラザロの復活」に重ね合わせることで物語を重層的(メタ領域の次元)に昇華させています。
罪と罰』には、極度の貧困から酒に溺れ、娘の「純潔」さえも金に替えてしまいながら「どこにも行き場のないということがどういうことかわかりますか」と訴えるマルメラードフ。シニシズムに満ちた悪魔的なスヴィドリガイロフ。マルメラードフの後妻であり、極度の貧困に自尊心を深く傷つけられながらも高貴な魂を失わないカチェリーナ。「私はもう終わった人間なんですよ」という科白が印象的な敏腕な予審判事ポルフィーリー。他にも、ラズミーヒン、ドゥーニャ、プリヘーリヤ等々、考察を促す重要人物達が数多く登場しますが、ここではラスコーリニコフと敬虔なキリスト教徒たるソーニャ、この二人の関係に絞って「魂の救済」という観点から概説していきます。
 ソーニャの存在はロシアの言葉でいうところのいわゆる「ユローディヴィ」(痴愚者。狂信的、陶酔的、白痴的な神がかり的な存在。ドストエフスキーはこのユローディヴィに対して崇高の眼差しを持っており様々な作品の中で登場させています。)であります。ラスコーリニコフ無神論的な思想、それはロシアの大地から切り離されてしまった者(分裂<ラスコール>したもの)と対立する、母なるロシアそのものの象徴としてソーニャは創出されています。このロシアの大地の具象的存在者としてのソーニャに関し、井桁貞義氏は著書『ドストエフスキー言葉の生命』のなかでソーニャが身にまとっている緑色のショールに注目してシンボリックな視点から考察しています。

  「(中略)小説の終幕近く、殺人者は罪を持ちきれず、自白を決意してソーニャの下に赴く。ソーニャは糸杉の十字架を彼にかけ、自分はリザヴェータからもらった銅の十字架をかけてセンナヤ広場に向かう。その時彼女が肩にはおるのがあの緑色のショールである。そして幕切れ、シベリアのイルトゥイシ河の岸辺での二人の復活の場面でも、ソーニャが緑色のショールを被っていることを作者は描き忘れてはいない。そうしてみると、わずか三回だが、(「三」が「父と子と聖霊」を示す聖なる数字であり、何事かの成就を表すシンボルであることを思い出そう。予審判事ポルフィーリィはラスコーリニコフと三度会って自首を促すのだ)小説に現れるこの緑色のショールはソーニャ像と分かちがたく結び付けられていることが感じられるだろう。
そんなことが気になったまま、私は東京で開催された「ロシア・イコン(聖像画)展覧会」で、ああ、これか、と思ったのだった。ロシアの聖母像のいくつかが、緑色のショールをかけているのだ。そのイコン展のプログラムには「緑は永遠の生命を表す」とかかれていた。緑はヨーロッパ文化の伝統の中では、清浄を表すシンボルであり、豊饒、新鮮さ、希望、自由、喜びのシンボルとなり得る事もわかってきた。(後略)」

 ソーニャのラスコーリニコフに対する盲目的かつ献身的な愛は彼を復活へと導くのですが、ソーニャの愛というものは積極的な、ともすれば教義的になりかねないような主体的愛というものではなく、受身的なそれであります。彼女は彼をただただ見守り、彼の思想をありのまま彼女の中に取り入れ、それを受け入れながらも、キリストの愛、神の愛から分離してしまった彼への憐憫を端緒とし彼を懸想していきます。やがて受け身的なソーニャの存在はラスコーリニコフを大地に接吻させるに至るようになります。ラスコーリニコフのビルドゥングス・ロマンのみならず、ソーニャも物語の中で主体的な存在として振る舞っていくのです。
 さて、彼女もまた罪深き者でありました。家族の為に自己犠牲的な「自分殺し」を行った彼女もまたラスコーリニコフ同様、社会から「踏み越えたもの」であり切り離されたものなのです。ユローディヴィである彼女にそのような立場を与えたドストエフスキーにこの作品の深遠さの一つが伺えます。

Ⅱ『白痴』

 「無条件に美しい人間を創造しようとした」
 上記ドストエフスキーの言葉が有名な『白痴』であります。この作品の主題のひとつは、現代ロシア社会に無条件に美しいイエスキリストのような存在が登場したとしたら、(その存在は「白痴」の主人公ムイシュキン公爵。白痴であります。つまり彼もまた「ユローディヴィな存在」であります。)その人物は、この現代ロシアの混迷の中では白痴のままで在りつづけるほかない、というものです。
 小説の終盤、ロゴージンがナスターシャを刺殺する場面は、涙する彼の前でその涙をそっと拭うムイシュキンの行為を「最も美しい場面のひとつ」であると感じます。そして、その後「文字通りの」白痴に戻ってしまう彼にこの作品の悲劇性が現れています。

 やはりこの作品においても魅力的な登場人物たちの群像劇を考察したいところですが、今回は「近いうちに絶対的に自分が死ぬ」ということが確信的であることに絶望し、世界をニヒリスティックに眺める聡明な青年イッポリートの作中のエッセイ「我が必要欠くべからざる弁明」を中心にした、彼の人生観、思想をまず取り上げたいと思っています。(イッポリートの引用は後日。)

 次に、ハンスホルバイン(子)の『死せるキリスト』をみて「俺はこの絵が大好きなんだ。!」とムイシュキンに語るロゴージンとムイシュキンの対蹠的な生き方の考察。ロゴージンはニヒリストであり、無神論者であります。上述した、死を宣告された青年イッポリートはこの『死せるキリスト』に現れるまったくの「完全なる死」を前にして、なぜこのような死体の前で、イエスの弟子達は彼が復活するなんて信じることができたのだろう、と考えますが、まさしくロゴージンも同じような問いが彼の発言から読み取れます。ここでそのロゴージンとムイシュキンとのやり取りを紹介してみます。

 「ところで、レフ、ニライチ(ムイシュキン)、俺は前からあんたに聞きたいと思っていたんだ。あんた、神様を信じているのかい、信じていないのかい?」
何歩か歩いてまたロゴージンが言った。
「君はなんて変な聞き方をするんだ。それに…その目つきもだけれど!」
と公爵は思わず言ってしまった。
「あの絵をさ、見ているのが好きなんだ、俺は」」
ちょっと黙ってから、まるでまた自分の聞いたことを忘れたように、ロゴージンはぶすっとした声で言った。
「あの絵をだって!」
予期しなかった考えに突き動かされて、公爵は思わず声をあげた。
「あの絵をだって!人によっては、あの絵のせいで、あった信仰も失われかねないというのに!」
(『白痴』第二編四)
(注)実際にドストエフスキーは旅行中に訪れたドレスデンの美術館の中でこの絵を見ておもわず何時間もそこに立ち尽くしてしまったといっています。おそらく、彼の中でこの絵は圧倒的な存在感を持っており、終生彼を悩ましつづけた信仰と無信仰の問題に、何かしら脅威的な超自然的な負の力を与えたものと思われます。

Ⅲ『悪霊』

  かつて日本赤軍が自分達の仲間を疑念から射殺したとき、また近年ではオウム真理教がそのカルト的なファナティックな思想を反社会的な虐殺という行為で示したとき、ドストエフスキー評者はこの『悪霊』を現代の預言書として言及してきました。
 なるほど、確かにこの作品においては、豚の中に入った悪霊どもが湖に落ちて溺れ死に、悪霊を取り除いてもらったものはイエスの元に座して救われるという「ルカ福音書」をエピグラフとして用い、西欧の近代思想に溺れ、そうした思想にとり憑かれた革命家たちが悲劇に見舞われ、残ったロシアの人々は浄化されキリストの下に生きる、という明確なヴィジョンがありますが、私はここではこの作品に関し、そうした、いわば俯瞰的な視座からの考察はすべて排し、ドストエフスキーが生んだ最も深刻なニヒリストともおもわれるニコライ・スタヴローギン(ギリシャ語で「十字架」を意味する「スタヴロス」からとられています。)およびその教育者かつ養父であったステパン・ヴェルホヴェンスキー、さらに独自の人神思想から神への挑戦を試みるキリーロフを主に照射してミクロな視座から論じていければと考えています。

 ニコライ・スタヴローギン
「教唆する」この言葉は『悪霊』を考える上で欠かせない用語ですが、広くロシア文学、そしてドストエフスキーに関しても専門的に研究されておられます亀山郁夫氏はこの「教唆」という概念を「使嗾」(しそう)という概念を使い説明しています。
 
 『悪霊』の主題を一言で表すならば、それは「使嗾の劇である」私も亀山氏同様そう言えると思います。革命運動の虚無と愚を中心的テーマとし、その前提から、この小説でドストエフスキーは神と人間の関係を深く念頭におくことを企図していました。
 
 「この小説には、二人の「神々」が登場します。すべてを可能ならしめる地上の神ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーと、一切を沈黙したまま見下ろす天上の神ニコライ・スタヴローギンです。二人に共通するのは使嗾する権力です。地上の神は現実の「変革」を志向するのに対し、天上の神は暗示によってフィフティーフィフティーの可能性に賭ける。(中略)そしてこの使ソウとは、じつは革命が必然的に抱え込まなければならない力学の本質なのです。(後略)」(『ドストエフスキー父殺しの文学下』NHK出版)

 亀山氏の論は、『悪霊』がその作品中に包含させる悪魔性を的確かつ端的に表しています。ピョートルに関してここでは詳述しませんが、確かに彼はあくまで「地上的」な存在に終始しており、その生き方はあくまで俗的な類のものです。革命によってテロルによる政府転覆の実現を標榜させながら、その根底にはあくまで虚無的な退廃した世界像しか見ていない彼の心は、その行動の本質に、革命を唆し地上の秩序を破壊せんとする子供じみた精神がみえます。

 一方スタヴローギンはあくまで「天上的」な存在です。ピョートルをして「あなたがいなければ私はガラス瓶の中の蝿です。ガラス瓶の中の理念です。」と言わしめた彼は、そのピョートルをはじめ様々な人物に影響を与えていきます。シャートフは彼の思想の中にロシア民族の誇りと世界平和を賛美の心を見出し、その考えに打ち震えながらも、彼の中にある虚無を発見し絶望します。
 キリーロフは彼の無神論に惹かれ、神が存在しないなら自らが神にならねばならない、という独自の哲学を掲げます。「苦痛と恐怖を征服した人は自ら神となる」とし、それを証明するために自殺する彼もまた、殺されたシャーとフ同様悲劇的な人物です。
 ピョートルが現実的で革命に向けて実際に奔走していきながら人々を扇動していくのに対し、スタヴローギンはあくまでそういう地上の(下界の)出来事の一つ一つをより高みから見下ろし、ピョートル達の行動によってもたらされる事件を楽しむために、それを促す天啓のようなものを与えていく存在です。(たとえばキリーロフに関しては、スタヴローギンは思想を吹き込み、破滅へ導くものですが、ピョートルはその自殺の場で「早く死ね。」と直接的に促すものです。)
かかる傲慢な神、十字架を背負いながらその十字架そのものを侮蔑する神スタヴローギンこそ『悪霊』の神髄であるでしょう。
 それにしても亀山氏の論には多分に影響されました。

Ⅳ『カラマーゾフの兄弟
 
 ドストエフスキー畢生の大作。世界文学史上に燦然と輝く名作。古今東西幾多の賢人がこの作品に感銘を受け、崇めてきました。かの天才哲学者ウィトゲンシュタインはこれを50回読んだという逸話は有名です。実に多くの思想家、芸術家、科学者…世界の知識人が雷光に打たれたかのごとく、この作品を絶賛します。金科玉条とし、絶対的な力をもつ現代の聖書、それこそが『カラマーゾフの兄弟』でさります。

 「カラマーゾフ」という言葉の由来はトルコ語及びロシア語の合成語であり、「黒く塗られたもの」という意味です。
この作品は壮大な人間群像劇であり、そこには様々な主題が鏤められています。正に集大成といえますが、それだけに、未刊となってしまった第二部があまりに惜しまれます。
 『罪と罰』において萌芽的な形で示され、『白痴』『悪霊』『未成年』へと続くドストエフスキー後期作品群を貫く「信仰、不信仰の問題」はこの『カラマーゾフの兄弟』において集約されます。ロシアの民衆とともにあり、ともに生きようとしたドストエフスキーの真摯で切実な姿がこの作品に現れているのです。


アリョーシャ・カラマーゾフ
 僕は文学史上、このアリョーシャ・カラマーゾフこそ最も美しい人間だと感じています。
 『カラマーゾフの兄弟』はもともと二部構成で構想されていました。一部刊行後ドストエフスキーが急逝されたため、第二部は世に出ることはなかったのですが、本来このアリョーシャは第二部でこそ主体的な存在として躍動することが作者の中で期待されていたのです。そのためか、第一部ではその役割におおきな能動性が与えられてはいません。
 ゆえに、アリョーシャは他のドストエフスキーの人物達に比べて「魅力に欠ける」といった態の評価をもらうことがあります。確かに第一部において際立った存在感を放っているのは、その愛憎劇に人間精神の崇高さと醜悪さをみるドミートリーやフョードルであったり、信仰と不信仰の果てに「父殺し」(<父>とはメタのレベルで神を殺すことがモチーフとしてある)をめぐり苦悩するイワンとスメルジャコフであったり、ソロヴィヨーフの神秘観に母なるロシアに降り注ぐ光明をみたドストエフスキーがその神秘思想をたくしたであろうゾシマであったりします。
 しかし、彼らの中で蠢くその「黒く塗られた」魂が破裂しそうになるとき、その魂を包み彼らを社会との紐帯の中に結び付けておく役割を果たしているのはまさにアリョーシャなのです。(アリョーシャはゾシマに対しても感化されるだけでなく、自ら感化した存在でした。)
 アリョーシャは決して観念的な聖者などではありません。彼もまた「信仰と不信仰の狭間」にゆれるドストエフスキー的人物なのです。(ドストエフスキー的人物とは、意識のなかに際立った二重性が顕現される人物であり、その意味では極めてロシア的人物像であるといえます。アリョーシャは際立った二重性こそ示していないものの、作者がイワンやラキーチンの口から言わせているように「カラマーゾフの血」を受け継いだ人物として描かれています。)


〇イワン・カラマーゾフ
 「神の作った世界を認めないんだ!」というイワン。
 イワン・カラマーゾフの叫びから私は彼の切実なる魂の叫びと真摯な善良さを見出します。彼は決して無神論者ではないし(「神はいない。」という言明がないというわけではありません。実際フョードルとの問答では「神はいない」と語っている。)、スメルジャコフが恣意的に援用する「(神がなければ)すべては許される」で安易に糾弾されるべき人物でも決してありません。
 「プロとコントラ」の章の中で彼は次のようにアリョーシャに語りかけます。
  
  「あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考え出すべきであるS'il n existait pas Dieu , il faudrait l'inventer.(ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、といったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、不思議でもなければ別段驚くべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入り込みえたという点が、実に驚くべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。(後略)」(原卓也訳 新潮文庫)

 この言葉はヴォルテールの言葉として有名であります。ヴォルテールはドイツ哲学者ライプニッツの予定調和説(現実の世界が神によって取捨選択された後の最良のものとして現れたものだというもの。)を批判しています。まったくの偶然から起きる不幸な災害や不幸、不遇な境遇にいる人々がこの世界には溢れているが、ライプニッツはそれを忘却している、というわけですが、イワンの言う人間の邪悪性における私見もこのヴォルテールの考えが起因となているものだと思われます。