harustory’s diary

日々の思索、その物語

現実-「死ねない」というならば、僕等は生きねばならぬ。-

 「(中略)ところで、問題は、人間の悪い性質からそういうことが起こるのか、それとも人間の本性がそういうものだから起こるのか、という点なんだ。俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇跡だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな。早い話、、たとえば俺が深刻に苦悩することがあるとしよう、しかし俺がどの程度苦しんでいるか、他人には決してわからないのだ。なぜならその人は他人であって、俺じゃないんだし、その上、人間というやつはめったに他人を苦悩者とみなしたがらないからな。(まるでそれが偉い地位ででもあるみたいにさ。)(後略)」

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟


  この「感じ」だ…。僕を押しつぶさんとする精神的、社会的逼迫状況。ああ、これがずっとずっと厳然と屹立している。


  僕達はどうにかして社会のなかに自分の位置を定立させないといけません。自らの居場所を作らなければなりません。どうしたってそうしなければならないことを僕はこれまでの経験から自覚しました。体得しました。悟りました。大悟しました。正に自覚であり、そいつは"実感"というどんよりとした圧倒的存在感を漂わせながら僕に接近してきたのです。その存在感は危機感でもあり、リアルな危機意識が僕をして「これはこのままの状態だとのっぴきならない事態を招来するぞ」との焦燥、それはあまりに余裕なき焦りを与えたのです。
 

  僕の状態なんて、一個の個人的自意識なんて、社会は相手にしません。一個人に過ぎない僕が社会という集合体に参与していく為には、個のなかに埋没したままでいるわけにはいかないのです。ああ、それがどんなに埋没してしまうに値するものだとしても、僕の場合はその事実を打ち消し、乾坤一擲の悲壮な決意ではいずってでも進んでいかなければならならなかったのです。おそらくそれは僕だけではないはずです。

デミアン』においてヘッセは述べる。鳥が卵のなかから抜け出ようと戦う。卵は世界である。生まれようと欲するならば、そのものは一つの世界を破壊しなければならないと。

  僕は一羽の雛。世界を知らぬ矮小で小さな命。個人的生命。社会という親鳥はコツコツと僕を叩く。「ほら、もうでなさい。外界にでないとキミは、キミは……。」
 雛が殻を破らんと鳴く声と母鳥が殻をつつき割る音が適切な機縁として符合すること、その好機を「啐啄同時」と言います。親鳥たる社会の鋭いくちばしは、雛である僕達の状況など考慮しません。世間は冷酷。酷薄なる社会は啐啄同時の時期などは全く待ってはくれません。いよいよ人生の袋小路にはまり、背水の陣を敷かざるを得なくなった時となっては、雛は親鳥の声なき声を無視してしまうわけにいかないのです。啐啄同時でなくとも、まだ外に出るには未熟だと、辛いと、無理だと、そう痛切に感じても、もしかしたらそれは運命的でさえあるのです。その時の僕等の選択が人生を決定付けてしまうことさえあるのです。『ハムレット』の「To be, or not to be: that is the question. 」なのです。

  僕等の心が囁きかける。「ほらどうするの。埋没してる?いや、わかるさ。だってキミの状況は実際きついものだよ。客観的に見たって殻に閉じこもっていなくちゃならないようにみえるよ。うん、わかるさ!とっても僕はわかるよ!理解できる。うんうん。今はゆっくり休もう。ね、まだ大丈夫だからさ。」
 
  自らをもって自らの境遇に甘んじようとするとき、たとえその現実が耐え難く凄絶で艱難辛苦に満ち、故にこそ甘んじなければならないと決定されたとしても、その決定の瞬間は僕達を自分殺しに導くことになりかねないのです。自分殺しを容認したことになるのです。

  これは絶望的な論理です。しかし、この論理は絶対に覆すことができないのです。反駁する余地を残していないのです。どれ程不本意な状況のなかで屈辱的な日々を送ることになろうとも、死にたくなければその不本意さのなかであがき続けなければならないのです。