harustory’s diary

日々の思索、その物語

泉鏡花『外科室』

泉鏡花『外科室』
 


 『外科室』に登場する伯爵夫人は、鏡花のイデーを体現した人物=鏡花の頭のなかにある理想像を形象化した人物、であると思う故、リアリティは希薄である。
 
 麻酔無しの手術を夫人が求めそれに応じる医師高峰の描写には、常識を超越したところに萌芽する鏡花流の愛の形が垣間見られるが、斯様な愛の流露には、前述した様に鏡花が理想とするような観念性が布置されているだろう。手術現場という非日常的空間に於いて生まれる至高な愛は鏡花にとって至高の美であったのだろうか。この美は滅び行く者が絶命する瞬間に放つ凄絶で悲愴な美しさであり、さながら恍惚とした殉教者の陶酔美である。
 
 ところで、三島由起夫は鏡花作品の女性像について次のように言う。

 「女性は保護者と破壊者の両面をつねに現はし、この二面がもっとも自然に融合するのはカーリ神のごとき女神でなければ日本的妖怪に於いてである」

 この「破壊者」的女性は、自己犠牲的女性像をも包含しているであろう。三島は死に逝く人間の美を描破したが、高峰に対する懸想を秘匿しながら、愛する者の刀(メス)によって己の体躯を掻切られ絶息するに至った夫人からは、三島的な滅びの美学との紐帯を感取することができる。そして、これこそ正に至純なる愛の美そのものである。

 鏡花が渇望する理想の女性像とは滅びを内在させた儚き女性である。しかし、その脆さは一方で永遠でもある。『夜叉ヶ池』では、竜神の化身として具現化された白雪姫は、かつて村に住み村民のために人身御供となった末、夜叉ヶ池に身を沈めるという非業の運命を遂げていた。このように、献身ゆえの愛から死を選ぶ女性が永遠の環に回帰していく構図が鏡花作品には存在する。
 『外科室』は悲劇譚の様相を示すが、かかる初期作品の内には既に鏡花の理想的女性像が胚胎している。畢竟するに、その性質は日常から離れた破綻的空間に於いて発現する愛という名の美である。

ガリラヤのカナ

 「何のために大地を抱きしめたのか、彼にはよくわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ…』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう?そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空から輝くこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、≪その狂態を恥じなかった≫のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が≪ほかの世界に接触して≫、ふるえていたのであった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも許しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しをこうてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂のなかに下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想ともいうべきものが、頭の中を支配しつつあった。そして、それはもはや一生涯、永遠に続くものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ち上がったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。」(『カラマーゾフの兄弟』第七編Ⅳ ガリラヤのカナ)この世界との無窮の調和に先立って、アリョーシャは深い苦悩の底でもがき苦しんでいた。
 
 ゾシマ長老という神の奇跡と寵愛を誰よりも受けるに値するような人物が、死後腐臭を発する。そんな神の仕打ちに絶望と懐疑の念を抱いたアリョーシャは深い悲しみに沈む。……パイーシイ神父の朗読する聖書が聞こえた。ひどい疲れにうとうとしていたアリョーシャはそのまま微睡の水底へと沈水していく…

 「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって」パイーシイ神父が読んでいた。「イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた」(訳者注 ヨハネによる福音書第二章)
 <…>
 「ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った。『ぶどう酒がなくなってしまいました』……」という言葉がアリョーシャにきこえた。
 『<…>この箇所は好きだな。これはガリラヤのカナだ、最初の奇跡だ……ああ、この奇跡、ああ、愛すべきこの奇跡!キリストが訪れたのは、悲しみの場所ではなく、人間の喜びであり、はじめて奇跡を行って人間の喜びに力を貸したのだ……「人を愛する者は、人の喜びも愛する」これは亡くなった長老がたえずくりかえしていた言葉だ、あの人のいちばん主要な考えの一つだった……<…>』
 <…>
 「イエスは母に言われた。『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』母は僕たちに言った。『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』……」
 <…>
 『<…>それにしても、これは何だ、どうしたのだ?<…>まさか……あの方もここに?だってあの方は柩の中のはずでは……でも、ここにも来ておられるんだ……立ちあがって、僕を見つけた。こっちへ歩いてくる……ああ!』
 そう、彼、アリョーシャの方へ、顔に小皺の一面によった枯れた老人が、静かにほほえみながら、嬉しそうに歩みよってきた。<…>
 『そう、やはり招かれたのだ。よばれたのだよ、招かれたのだ。』<…>
 あの方の声だ、ゾシマ長老の声だ……<…>長老は片手でアリョーシャを引き起こした。ひざまずいていたアリョーシャは立ちあがった。
 <…>
 『<…>ここにいる大部分の者は、たった一本の葱与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ?お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ!われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』
 『こわいのです……見る勇気がないのです……』アリョーシャはささやいた。
 『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ
。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。
ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる。見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか……』
 何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった……彼は両手をひろげ、叫び声をあげて、目をさました……

 

 この「ガリラヤのカナ」の夢におけるゾシマ長老との予期せぬ対面がそのすぐ後のアリョーシャの大地抱擁につながっていきます。このとき、もはや彼の内に信仰に対する懐疑は消え失せていました。何故なら彼は確かに「神の奇跡」をみたから。
 神による奇跡とははっきりとした現象では(必ずしも)ないのです。神の愛は、それを信じる者の魂に内側から光を照らす。アリョーシャは神の栄光がゾシマ長老の亡骸に降り注ぐことを信じ疑わなかった。ラザロが死して四日の後、その腐臭が充満した穴蔵からキリストの奇跡によって復活したように…
 しかし、彼の安易な期待は裏切られたのです。神は沈黙したままであったから…。
 
 「何故神はこんな仕打ちをするのだろうか?」彼は呻吟する。
 失意から俗世におり、グルーシェンカの住まいを訪ねたアリョーシャはここで彼女の愛の深さを知り感涙します。グルーシェンカもアリョーシャこそが汚れた自分のような女を赦してくれるのだと泣く。二人は互いに一本の葱(善行と解して下さい。)を差し出し、互いを闇から救い出したのです。
 このときにアリョーシャは神の愛の深甚さ、偉大さを知ります。こういった一つ一つの他者を想う何気ない行為が、既に神の奇跡の一部なのだと。ゾシマ長老が彼の夢に現れたのはそんな時であったのです。
 
 彼は自分こそが死せるラザロその人であったことに気づく。そして、神の愛、ゾシマの愛によって復活した彼は、神の輝く満天の空の下で確かに永遠を感じたのだ。大地へ咽び泣いたアリョーシャは揺るぎなき戦士であった…

天童荒太『永遠の仔』

 


 天童荒太永遠の仔』(1999 幻冬舎

 氏が抱いている大きなテーマの一つに「家族」があります。そして、「家族」の喪失によって引き起こされるであろう精神的傷を、孤独、トラウマ、虐待、差別、愛情の欠如…といった問題として具体化させ、社会に対する痛切なメッセージとして投げ掛けるのです。個々の内面を深化させ、その深奥に潜んでいる未分化な情念を細密な描写で捉えつつ、巨視的な立場から個人の問題を捉えなおし、最終的に現代社会そのものの暗部を抉り出すところに天童氏が目指す一地点があるのではないかと考えます。ミクロからマクロへとシフトしていく過程。そしてマクロからミクロへと還元させる過程。この二つを引き寄せる磁場こそが「家族」という主題なのです。
 実際、彼の作品には家族や社会から隔たり、喪失感、疎外感を抱えた人物が幾人も登場してきます。

 幼き頃の家族の愛情を倒錯した形で体現し、猟奇殺人を繰り返す『孤独の歌声』。
 家族の崩壊を嘆き、義憤した心を「家族の生贄」という特異な儀式的殺人によって癒そうとする『家族狩り』等、天童氏の諸作品には「家族」が根本思想として存在しているのです。
 家族を「」であらわしているのは、いわゆる一般的な家庭を表す家族像だけでなく、それをも包含した象徴的、普遍的な性質の家族像を天童氏が念頭に置いていると考える所以です。そこには、家族というものは本来こうあるべきといった天童氏の切実なる願いがあるように思われます。

 今回取り上げる『永遠の仔』でありますが、この作品は幼少期にそれぞれの家庭に於いて受けた心の傷がトラウマとなって、大人になった今もそのPTSDに苦しみつつ日々を生きている男女三人の現在と過去の激動する魂の彷徨を辿った作品であります。

 小学生の頃に自分の父親から強姦され、その絶望を究極の形で浄化しようとする主人公久坂優希(ルフィン)。
 母親のエゴにより母性的な愛の枯渇に懊悩する長瀬笙一郎(モウル)。
 父親から体中にタバコの火を押し付けられ虐待された有沢良平(ジラフ)。
 以上三人は、それぞれが受けた心の傷を治療するために児童医療施設へと向かうこととなる…

 この作品は主人公達の過去と現在が螺旋のようにめまぐるしく入れ替わり交差しながら物語が進められていきます。過去と現在が交錯する心の螺旋は、ルフィン達の人格が、現在の生き方が、どのような過程を経て形成されていったのかを如実に語ります。ここで、読者は三人の現在の立場、関係、価値観などを過去の体験を重ね合わせながら読み進めることによって把握することが出来ます。
 読者は過去と現在の二つのプロットが最初それぞれ独立した形式で展開されていくことに若干の戸惑いをおぼえるかもしれません。しかし、すぐに、それはやがて本流へと導かれていく為の支流の様なものだと気づくはずです。これは天童氏の秀逸な小説技法のひとつであるとともに、須く作家という文筆家を生業にしている者の多くが備えている技能といえるでしょう。

 『永遠の仔』に於ける物語上の大きな転換点として、三人が心の傷を打ち明ける場面、それは作者の思いが最も集約されたであろう白眉なシーンがあります。(文庫版表題『告白』)
 主人公優希はそれまで笙一郎、良平の二人を施設の仲間としてはみていても、心を共有した人物としては彼らを受け入れてはいませんでした。しかし、彼等二人の、自分たちが受けた陰惨な悲しみの告白はやがて優希の心に一条の光を照らすことになり、彼女は自らの苦しみをも彼等自身の苦しみ悲しみとして抱きしめてくれる(永遠の仔の仔に託した作者の渾身の想い!)二人を特別な存在として見出すに至るのです。
 ここにおいて、彼女たちは一つの「家族」となり、そして一つの大きな愛に包まれるのです。あらゆる感情は三人のうちに共有され、孤立していた感情は愛によって結合され、三人は人生の同伴者として再び眼を覚ますことになるのです。私はここに天童氏の家族に対する切実なる願いをみます。

 子供は母親に母性としての愛を求める。作者がこの作品のタイトルを『永遠の仔』と命名したのは、私達が誰であっても永遠に「仔」であって、そのことは、私達が成長していって大人になったからといってなんら不変であるということをこの作品を通して示したかったからではないでしょうか。子宮に包まれた胎児を象徴したという「仔」という一文字には、天童さんの「家族」に対する並々ならぬ憧憬、光の珠のような輝きがあります。それは現代の希薄化した繋がりのなかであわただしく明滅し、その存在を私達に訴えているようにも見えます。

王魯彦の『秋夜』

王魯彦の『秋夜』



 極めて暗澹たる、「死に彩られた」小説。この「死」は作品世界に於いて円環を形成し、その楔は主人公に常に纏わりついて離れない。謂わば、主人公は死の世界に囲繞されている。主人公は幽界の中で現実との結合を消失し、死と地続きの特殊な磁場にいる。それは内面化された主人公の精神。
 

「絶え間なく犬が吠える声に、私は目を覚ました」。
朧げな物語はここより始まる。犬はここで如何なる意味を象徴するであろうか。犬は主人公に死の危険を感知させる存在であると同時に(これは後の描写でわかる。)それ以上の意味を担っている。犬の咆哮は人生の苦悩を、それでも救いを求める人間の凄愴で悲愴なる嘆願の叫びである。
犬はその痛哭の間隙を縫って吠えているように描かれる。作者は犬と人間の叫びを曖昧にさせている。犬の咆哮と人間の哀切、その境界線を希薄させ、鬼哭啾々たる慨嘆の調に潜むもう一つの訴えの所以。畢竟、それは呪詛の響。
「犬はいっそう激しく吠えた。もはや最初の悲しい鳴き声ではなく、凶暴な憤怒に満ちた声に変わっていた。」
主人公は何故にそう感じたか。次の行では
「いたたまれなくなった」と表白している。何故か。
主人公は戦渦にあって人を見殺しにでもしたのではないかと罪責する。そして、それを悔悟している。強迫観念的に過去の罪過に煩悶する人物こそが主人公であり、主人公の世界には死が始終纏わりついて離れない。その苦悶をシンボリックに、また幻想的に表出する手法として、救済と呪詛の錯綜した感情を犬の咆哮という印象的な技法に仮託させる。

死の暗黒と対比的に表現されるものが、作品中に点綴している「月光」であり、私達はその意味するところを捉える必要がある。光と影のさりげない描写を私達は見逃してはならない。
「蚊帳の中から覗いて見たが、真っ暗で何も見えない」。
この科白が作品の最初と最後に繰り返されるのは、この言葉が主人公の死の観念に囚われた心象風景を示唆している。死の闇と月光の光を具体的に描写しているシーンがある。それは蘭英という人物との会話からわかる。蘭英との問答をみてみよう。
「『今夜は月は出ているんだろう?星は?』
『いいえ。夜は暗いものよ。光なんてあるはずがないわ』、彼女は悲しそうに言った。私の心臓が突然ドキンと鳴った。」
蘭英は冷徹でどこかシニックな人間であり暗い影を内包している。そんな彼女が「光なんてあるわけない」と悲観品しながらもどこか虚無的であり、諦念さえ覚えるように言う。ここからは、彼女の胸中をみることができようが、それは主人公にとって彼女の存在が、彼女との過去がもはや、脈動する生きたものでないことを示している。
ところで、私はこの作品が死の観念に自縄自縛された主人公の精神世界を象徴的に描出した寓意譚であることについて述べてきたわけだが、死との紐帯を表すものとしては墓(墓地)もまたそうである。作品中、墓は主人公自身の死に対する畏怖の暗喩となっている。次の件はまるで死に包囲されているかの様な光景である。
「こんもりした小山のような墓が、いくつも私のまわりを取り囲んでいた」。「私はまわりじゅう墓に囲まれ、湿った草の上に横たわっていた」。
最後に冒頭述べた円環について一言する。この作品は夢と現の境界を失くすことによって、主人公を常に死の境地に追いやっている。夢の中では主人公は死の観念から逃れる術を持たない。「起きろ、目を覚ませ!」によって始まり、再びそれによって終わりゆく物語は、同時に新たな夢のような現実のような世界の招来でもある。かかる作用こそが円環であり、如上の構造は例えば夢野久作の『ドグラマグラ』にも類する技法である。

いろいろー

 文明開化による近代の曙光は、同時に従来からの小説の在り方、概念をを変容させるものとなった。近世までの大衆文学である所謂読本、人情本が徐々に衰退していく過程で、坪内逍遥は『小説神髄』に於いて、小説の方法論として「模写」及び「写実」を措定し、近代文学が定立すべき小説の概念というものを近世文学の批判的受容により、そのなかで創出していくこととなった。逍遥は、小説を夢想的で新奇な設定を用いる「ロマンス」から、ありのままの現実の諸相を映し出すものとしての稗史的な「ノベル」へと修正させていくことを企図していた。実際、江戸時代作家の滝沢馬琴が著し読本の華とされた『南総里見八犬伝』に於いて語られた因果応報・勧善懲悪の理念は、彼の虚飾を駆使した文学技法と相俟って逍遥によって批判されている。このことは読本の形式が逍遥にとって小説の本質足るものではないことを示している。

 その一方で人情本に関しては立場が異なる。確かに逍遥を端緒とする近代小説の自覚は、国家の近代化に伴う政治意識の高揚やヨーロッパ文化の影響等の社会文化史的観点から、近世までの文学とその内実を異にするが、逍遥の提起する写実主義には一般大衆全体の生活を主眼とし、抽象する人情本がその下地となっていることもまた事実でありそのことは注目すべきことである。社会に生きる人々の風俗、世態を描破することは、逍遥の小説信条に影響される尾崎紅葉二葉亭四迷等の作品によって代表される自然主義文学の作法と通底している。
 
 紅葉の作品姿勢は、社会のあらゆる側面から題材を集め、それを作品の中に結実させることによって現実の表象をそのまま浮き彫りにさせるところに神髄があった。代表作『金色夜叉』は、金に目が眩み許婚たる主人公の男の下を去る宮の姿を通して、拝金主義的な近代の暗部な姿が社会に蔓延しつつあることに警鐘を鳴らしたリアリズム小説とも把握出来得るであろうし、また主人公貫一と宮との齟齬を通して「近代的個我」の問題を見て取ることも可能といえよう。如上の意味内容が、逍遥に始まる近代小説の在り方と地続きになっていることは、近代の合理主義的また個人主義的なその実相をありのままに写し出すことを要諦とする彼の小説観を鑑みたとき確かめられよう。
 
 四迷は評論「小説総論」で、物事を写実的に捉えるという行為は現象を追随する行為ではなく、そこには「本質を追求する態度」がなければならないと明確にしているが、これは彼が、小説の一義としてただリアリスティックに現実の世相を文字化するのではなく、現実と個人との関係性の中で、其々の個がどのように生きるべきかという「内面化」を志向していたことを示唆している。日本文学者越智治雄は、かかる内面への凝視が近代小説の要素に具備されているとき、その内面化の過程を支えるものにロマンスの形式があったと指摘する。彼によれば、逍遥の小説作品に於いては、ノベルの内実をロマンスが支えていたことが発見されると指摘するが、これは理想と現実の相克に煩悶する個人の精神の内奥を描出しようとしたその帰趨に因るものであり、逍遥の作品のみならず四迷の『浮雲』や鴎外の『舞姫』等に於いても然りであると言う。

 『浮雲』では、文三とお勢が社会の混迷する状況に振り回されるが、これは近代社会のパラダイムシフトを提示するとともにその社会に生きる個々人までを穿っている。写実としての小説の役割は本質を模索するための方途足るべきであるという四迷の主張は、ノベルの構造をロマンスの外枠によって記述することにより表現表出される個人の内面性という点に主眼が求められる。畢竟するに、それは、逍遥の『小説神髄』に端を発するノベルとしての近代小説が外面的な写実主義に留まらず、逍遥自身が否定していたロマンスの要素も少なからず内包することによって近代の実相を克明にしていく過程まで敷衍されるわけである。

ラスコーリニコフ だ

彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へはいった。何ひとつ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただとつぜん、自分の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意志もない、すべてがふいに最後の決心をみたのだ、ということを直感した。」

 あれが、彼の行ってしまったあの行為、行動、選択が、彼の理性から抜け落ちたところで決行されたことを示す、ラスコーリニコフの虚無的な述懐。

 畢竟、ラスコーリニコフの殺人とはその内部構造に人類愛やニーチェの超人思想などが起爆剤として備わっていても、彼の肥大した観念が産出した一か無かの人生を賭した博打であり、それは偶然という必然を「強いた」超自然的な悪魔的力によるものだったのである。彼の理性はただその眼に見えない力の操り人形に過ぎなかった。
 彼は、彼はそんな博打をするべきでなかった……僕は、ずっとずっと彼にシンパシーを抱き続けてきた。15年もの間ずっと。何故なら、彼は、ラスコーリニコフという人間は、本来的に極めて心優しき人間であり、道を踏み外すべき人間ではなかったからだ。あんな選択を彼に強制させた魔的なるものをこそ、それをこそ見つめなければならない。透徹した精神で…。
 もし、時間が戻るなら、彼は全く別の行為をし、全く別の選択をしていたに違いないと、僕は思わざるを得ない…

 これは批評ではない。彼に仮託された……。殺人故にこの作品の世界的価値があるなどはわかっている。


 「ラスコーリニコフは近ごろ迷信的になっていた。その痕跡は後々までも長く残って、ほとんど消しがたいものになってしまった。この事件ぜんたいに関しても、彼はその後いつも一種の不可思議性、神秘性を感じた。そして特殊な力の作用と、様々な偶然の一致が存在するように感じた。」
 
 彼が感じた「不可思議性、神秘性」こそ、実にも彼を殺人の刑場へと誘う悪魔の尻尾であり、その禍禍しい存在は否応なく彼を殺人へと駆り立てていった。マルメラードフとの出会い、彼によって聞かされた彼の一家の窮状。母の手紙。妹ドゥーニャの自己犠牲。酔っぱらった少女。痩せ馬殺しの夢。リザヴェータ不在の知らせ。全てが彼を、ただの夢想者に押し留めていくか、それとも一歩を踏み出すテロリストとして引き上げるかという神と悪魔の鬩ぎあいであった。それはさながら荒野の問答であるが、神が悪魔を退けた聖書の記述とは異なり、ラスコーリニコフの場合、神はほとんど彼に手助けをしない。まるで悪魔によって導かれていく彼をただ沈思黙考しながら見つめつづけているようだ。
 
 ラスコーリニコフは近代ロシア社会のなかで自らの強い意思と理性的な判断によって事を成そうとする西欧個人主義思想の申し子のような存在として描かれており、実際、彼の思想と行動は彼自身によって選択され醸成され、実際的行為へと形付けられていったように思える。しかし真実は違う。彼のその主意的な理性は悪魔によって利用されたのである。彼の力の及ばない何か超越的な導きが彼を殺人という刑場へ誘い、その力に何ら強靭な抵抗すらできないまま彼は殺人を遂行したのである。つまり、彼の殺人はその意味では必然的であったとも言える。どんなに彼が抗おうとも(最終的に抗えなかった―彼は自分の生来的本性に対し無力であった―)、どんなに彼が嫌悪し、その妄想を放棄しようと勤めたとしても、悪の見えざる手は彼を殺人という血塗られた現実へと誘導していったのだ。
 
 看過してはならないことがある。それは、殺人の契機は、彼の内部に沸々と湧出されていた博愛主義的妄想にあったという事である。殺人にまで高められた思想の雛型は、彼の善良で、純潔さと博愛精神に満ちた高貴さにある。それはつまり、社会のなかで不当に辱められ、利用され搾取されつづける虐げられし人々達への共苦。そして、それを無慈悲に容認する社会への呪詛。彼の純真さを権力主義にまで高め、終には「自分は人間か虱か」という極限の地平にまで引き上げて利用したのが悪魔なのである。京極夏彦は小説『魍魎の匣』のなかで、理由なき殺人、本人もまったく何故殺害してしまったのかてんで見当もつかないような事件に際して、それらが「憑き物」がついてしまったからだと作中人物の口を借りて述べているが、ラスコーリニコフのケースも彼の身体に邪悪な憑き物が憑依してしまったのである。ただ、彼の場合、その自意識過剰さと誇り高き性格から真っ当な理由をいくつも列挙するが、彼自身それらが自己欺瞞に過ぎないということは自覚的なのである。だ

知らない

平田教授の声が響き渡る大教室の中、彼は、ぼんやりとしながら、携帯のボタンを押し、出てくる予測変換の言葉をみていた。
 多くの学生達が十人十色の様をみせている。あるものはスマホを。あるものは後部座席で談笑にふけ、また別のものは迫る「公務員試験」 の為に内職をしている。教室の端を眺めてみる。その一隅では、成仏出来ない首無しの幽鬼が現世に突如、大挙としておとないを告げにきた如く、誰もが首をしなだらせては見事なまで綺麗に寝ている。「成程これは合理的だぞ。どれ、僕も午後の飲み会に備えて一眠り、惰眠をむさぼるといきましょうか。」。最後の一瞥を教壇にくれようと眺めると、前方彼方の取り巻き連が物識り顔で鹿爪らしく教授先生様の御託宣を一言一句たり漏らすまいとノート作成に余念なき様子である。 
〈成程、これこそが大学という英知の場か。ここにおいて、ニーチェはその思想の全貌を表し、アウグスティヌスは全てを告白し、ドストエフスキーの神義論は解決をみるのか。成程成程。〉 
「イギリス功利主義や社会契約論等に基づいた現代的自由論解釈については、思想家ですとベンサム、ミル、ルソー、バークリなどをこの講義では取り上げます。」平田教授の講義が熱を帯びる。
 「ちなみにデカルトですが、彼はコギトを方法的懐疑によって導き出し、それを知識の源泉としました。しかし、精神を身体と分離させ世界と隔離されたものとみなしたところに彼の理論の問題があります。コギトとは『疑っているこの私』、つまり私自身の思惟を意味します。有名な『われ思うゆえにわれあり』というやつですね。
 次にロックですが、彼は経験に知識の源泉を求めました。経験が観念となり、それを組み合わせて思惟が獲得されると彼は考えたのです。そして経験される事物には一次性質と二次性質があり、事物そのものに属する一次性質にロックは知識の絶対性を付与しました。しかしロックのこの考えはその後のバークリなどにより事物は分類できないものとして批判されるに至ります。」
退屈極まりない授業。彼は既に教授が何を言っているのかさっぱりわからなかった。わかろうとしなかったのである。

 「えー、ここでデカルトスピノザライプニッツの自然観の違いを把握することは重要です。
 デカルトは精神の属性を『思惟』、物体、身体の属性を『延長』とに分類し、延長としての物質的事物の総体として自然全体をくまなく延長と捉えました。つまり、デカルトにとって自然はただの物質に過ぎずそれは一つの機械でしかないのです。これが彼の機械論的自然観といわれるものです。スピノザは自然のうちに神を認める『神即自然』の汎神論的自然観を確立しました。神である自然の絶対無限の力能を自己の本質としてのコナトゥスを通して表現することによって、人間を含めた万物の自己保存と活動の関係を説明したのです。ライプニッツは全存在が各々のモナドの力によって存在しつつ、その表現作用の段階によって階層的秩序を形成するという階層的自然観を確立させました。」
彼は、いい加減に教室を出て、本屋にでも行こうとした。堪らない。無意味だ。そんな想念が彼を駆り立てていた。
 「えー、次に先週の講義で生徒諸君から質問があったカントの認識論の特徴と意義に関して説明します。カント認識論の特徴としては、所謂『コペルニクス的転回』が挙げられます。これは従来の、認識が対象に従うという発想から、対象が認識に従う、とした彼独自の発想であります。カントは感性と悟性という認識における二つの幹を設定し、感性による直観と悟性による思惟によって認識が可能になると述べます。感性には空間、時間の形式が、悟性にはカテゴリーが備わり、この二つのものによって対象は現象として現われるのです。ここには認識の外側に在る「物自体」が前提されており、この「現象」と「物自体」という区別に認識の外に在る形而上的な問題を提起させたところに彼の認識論の意義があるといえます。」
うんざりしながら、彼はノートや筆箱をバッグにつっこむ。すると、前方に位置取っていたあの取り巻き連が平田教授を満足させようと質問を投げ掛ける。
 「先生、近代的自然観及び人間観は如何なる事態を齎し、そしてその事態を哲学者たちはどのようにして乗り越えようとしたのでしょうか?」
〈知るもんか!〉彼はいらいらしながら思った。
曰く「ではお答えしましょう。近代の自然観は自己保存、これはコナトゥスのことで  
すね、それを絶対視するために全体主義に陥ってしまいます。これを乗り越えるためには、対象性の倫理から非対称の倫理へと移行し『コナトゥスの彼方へ』脱出する必要があると例えばレヴィナスなどは言っております。さらにネスは自然と文明の宥和、自然と人間及び人間と人間の支配なき関係というユートピアへの希求によって近代的自然観を乗り越えようとしました。」
取り巻き連は充実した気色を滲ませながら、莞爾と笑い頷いては御礼を言っていた。
〈馬鹿馬鹿しいっ!!教授先生達はデカルトやらカントやらコナトゥスやらがなきゃならないんだっ!!そうしなきゃ自分達のパンがなくなるからな!彼等は自分の『研究』を、殊更に深刻ぶって、何かまるでとてつもない大事業を成し遂げた者が演説するかの様に語るんだ。語り尽すんだ。そうして「論文」なるもので衆目を幻惑している。くだらない!ああ、くだらない!なにもかもがくだらないんだっ!!〉