harustory’s diary

日々の思索、その物語

ガリラヤのカナ

 「何のために大地を抱きしめたのか、彼にはよくわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻したくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ…』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう?そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空から輝くこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、≪その狂態を恥じなかった≫のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が≪ほかの世界に接触して≫、ふるえていたのであった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも許しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しをこうてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の円天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂のなかに下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想ともいうべきものが、頭の中を支配しつつあった。そして、それはもはや一生涯、永遠に続くものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ち上がったときには、一生変わらぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。」(『カラマーゾフの兄弟』第七編Ⅳ ガリラヤのカナ)この世界との無窮の調和に先立って、アリョーシャは深い苦悩の底でもがき苦しんでいた。
 
 ゾシマ長老という神の奇跡と寵愛を誰よりも受けるに値するような人物が、死後腐臭を発する。そんな神の仕打ちに絶望と懐疑の念を抱いたアリョーシャは深い悲しみに沈む。……パイーシイ神父の朗読する聖書が聞こえた。ひどい疲れにうとうとしていたアリョーシャはそのまま微睡の水底へと沈水していく…

 「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって」パイーシイ神父が読んでいた。「イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた」(訳者注 ヨハネによる福音書第二章)
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 「ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った。『ぶどう酒がなくなってしまいました』……」という言葉がアリョーシャにきこえた。
 『<…>この箇所は好きだな。これはガリラヤのカナだ、最初の奇跡だ……ああ、この奇跡、ああ、愛すべきこの奇跡!キリストが訪れたのは、悲しみの場所ではなく、人間の喜びであり、はじめて奇跡を行って人間の喜びに力を貸したのだ……「人を愛する者は、人の喜びも愛する」これは亡くなった長老がたえずくりかえしていた言葉だ、あの人のいちばん主要な考えの一つだった……<…>』
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 「イエスは母に言われた。『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』母は僕たちに言った。『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』……」
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 『<…>それにしても、これは何だ、どうしたのだ?<…>まさか……あの方もここに?だってあの方は柩の中のはずでは……でも、ここにも来ておられるんだ……立ちあがって、僕を見つけた。こっちへ歩いてくる……ああ!』
 そう、彼、アリョーシャの方へ、顔に小皺の一面によった枯れた老人が、静かにほほえみながら、嬉しそうに歩みよってきた。<…>
 『そう、やはり招かれたのだ。よばれたのだよ、招かれたのだ。』<…>
 あの方の声だ、ゾシマ長老の声だ……<…>長老は片手でアリョーシャを引き起こした。ひざまずいていたアリョーシャは立ちあがった。
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 『<…>ここにいる大部分の者は、たった一本の葱与えたにすぎない、たった一本ずつ、小さな葱をな……われわれの仕事はどうだ?お前も、もの静かなおとなしいわたしの坊やも、今日、渇望している女に葱を与えることができたではないか。はじめるがよい、倅よ、自分の仕事をはじめるのだ、おとなしい少年よ!われわれの太陽が見えるか、お前にはあの人が見えるか?』
 『こわいのです……見る勇気がないのです……』アリョーシャはささやいた。
 『こわがることはない。われわれにくらべれば、あのお方はその偉大さゆえに恐ろしく、その高さゆえに不気味に思えもするが、しかし限りなく慈悲深いお方なのだ
。愛ゆえにわれわれと同じ姿になられ、われわれとともに楽しんでおられる。客人たちの喜びを打ち切らせぬよう、水をぶどう酒に変え、新しい客を待っておられるのだ。たえず新しい客をよび招かれ、それはもはや永遠になのだ。
ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる。見えるか、新しい器が運ばれてくるではないか……』
 何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった……彼は両手をひろげ、叫び声をあげて、目をさました……

 

 この「ガリラヤのカナ」の夢におけるゾシマ長老との予期せぬ対面がそのすぐ後のアリョーシャの大地抱擁につながっていきます。このとき、もはや彼の内に信仰に対する懐疑は消え失せていました。何故なら彼は確かに「神の奇跡」をみたから。
 神による奇跡とははっきりとした現象では(必ずしも)ないのです。神の愛は、それを信じる者の魂に内側から光を照らす。アリョーシャは神の栄光がゾシマ長老の亡骸に降り注ぐことを信じ疑わなかった。ラザロが死して四日の後、その腐臭が充満した穴蔵からキリストの奇跡によって復活したように…
 しかし、彼の安易な期待は裏切られたのです。神は沈黙したままであったから…。
 
 「何故神はこんな仕打ちをするのだろうか?」彼は呻吟する。
 失意から俗世におり、グルーシェンカの住まいを訪ねたアリョーシャはここで彼女の愛の深さを知り感涙します。グルーシェンカもアリョーシャこそが汚れた自分のような女を赦してくれるのだと泣く。二人は互いに一本の葱(善行と解して下さい。)を差し出し、互いを闇から救い出したのです。
 このときにアリョーシャは神の愛の深甚さ、偉大さを知ります。こういった一つ一つの他者を想う何気ない行為が、既に神の奇跡の一部なのだと。ゾシマ長老が彼の夢に現れたのはそんな時であったのです。
 
 彼は自分こそが死せるラザロその人であったことに気づく。そして、神の愛、ゾシマの愛によって復活した彼は、神の輝く満天の空の下で確かに永遠を感じたのだ。大地へ咽び泣いたアリョーシャは揺るぎなき戦士であった…