harustory’s diary

日々の思索、その物語

天童荒太『永遠の仔』

 


 天童荒太永遠の仔』(1999 幻冬舎

 氏が抱いている大きなテーマの一つに「家族」があります。そして、「家族」の喪失によって引き起こされるであろう精神的傷を、孤独、トラウマ、虐待、差別、愛情の欠如…といった問題として具体化させ、社会に対する痛切なメッセージとして投げ掛けるのです。個々の内面を深化させ、その深奥に潜んでいる未分化な情念を細密な描写で捉えつつ、巨視的な立場から個人の問題を捉えなおし、最終的に現代社会そのものの暗部を抉り出すところに天童氏が目指す一地点があるのではないかと考えます。ミクロからマクロへとシフトしていく過程。そしてマクロからミクロへと還元させる過程。この二つを引き寄せる磁場こそが「家族」という主題なのです。
 実際、彼の作品には家族や社会から隔たり、喪失感、疎外感を抱えた人物が幾人も登場してきます。

 幼き頃の家族の愛情を倒錯した形で体現し、猟奇殺人を繰り返す『孤独の歌声』。
 家族の崩壊を嘆き、義憤した心を「家族の生贄」という特異な儀式的殺人によって癒そうとする『家族狩り』等、天童氏の諸作品には「家族」が根本思想として存在しているのです。
 家族を「」であらわしているのは、いわゆる一般的な家庭を表す家族像だけでなく、それをも包含した象徴的、普遍的な性質の家族像を天童氏が念頭に置いていると考える所以です。そこには、家族というものは本来こうあるべきといった天童氏の切実なる願いがあるように思われます。

 今回取り上げる『永遠の仔』でありますが、この作品は幼少期にそれぞれの家庭に於いて受けた心の傷がトラウマとなって、大人になった今もそのPTSDに苦しみつつ日々を生きている男女三人の現在と過去の激動する魂の彷徨を辿った作品であります。

 小学生の頃に自分の父親から強姦され、その絶望を究極の形で浄化しようとする主人公久坂優希(ルフィン)。
 母親のエゴにより母性的な愛の枯渇に懊悩する長瀬笙一郎(モウル)。
 父親から体中にタバコの火を押し付けられ虐待された有沢良平(ジラフ)。
 以上三人は、それぞれが受けた心の傷を治療するために児童医療施設へと向かうこととなる…

 この作品は主人公達の過去と現在が螺旋のようにめまぐるしく入れ替わり交差しながら物語が進められていきます。過去と現在が交錯する心の螺旋は、ルフィン達の人格が、現在の生き方が、どのような過程を経て形成されていったのかを如実に語ります。ここで、読者は三人の現在の立場、関係、価値観などを過去の体験を重ね合わせながら読み進めることによって把握することが出来ます。
 読者は過去と現在の二つのプロットが最初それぞれ独立した形式で展開されていくことに若干の戸惑いをおぼえるかもしれません。しかし、すぐに、それはやがて本流へと導かれていく為の支流の様なものだと気づくはずです。これは天童氏の秀逸な小説技法のひとつであるとともに、須く作家という文筆家を生業にしている者の多くが備えている技能といえるでしょう。

 『永遠の仔』に於ける物語上の大きな転換点として、三人が心の傷を打ち明ける場面、それは作者の思いが最も集約されたであろう白眉なシーンがあります。(文庫版表題『告白』)
 主人公優希はそれまで笙一郎、良平の二人を施設の仲間としてはみていても、心を共有した人物としては彼らを受け入れてはいませんでした。しかし、彼等二人の、自分たちが受けた陰惨な悲しみの告白はやがて優希の心に一条の光を照らすことになり、彼女は自らの苦しみをも彼等自身の苦しみ悲しみとして抱きしめてくれる(永遠の仔の仔に託した作者の渾身の想い!)二人を特別な存在として見出すに至るのです。
 ここにおいて、彼女たちは一つの「家族」となり、そして一つの大きな愛に包まれるのです。あらゆる感情は三人のうちに共有され、孤立していた感情は愛によって結合され、三人は人生の同伴者として再び眼を覚ますことになるのです。私はここに天童氏の家族に対する切実なる願いをみます。

 子供は母親に母性としての愛を求める。作者がこの作品のタイトルを『永遠の仔』と命名したのは、私達が誰であっても永遠に「仔」であって、そのことは、私達が成長していって大人になったからといってなんら不変であるということをこの作品を通して示したかったからではないでしょうか。子宮に包まれた胎児を象徴したという「仔」という一文字には、天童さんの「家族」に対する並々ならぬ憧憬、光の珠のような輝きがあります。それは現代の希薄化した繋がりのなかであわただしく明滅し、その存在を私達に訴えているようにも見えます。