harustory’s diary

日々の思索、その物語

ラスコーリニコフ だ

彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へはいった。何ひとつ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただとつぜん、自分の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意志もない、すべてがふいに最後の決心をみたのだ、ということを直感した。」

 あれが、彼の行ってしまったあの行為、行動、選択が、彼の理性から抜け落ちたところで決行されたことを示す、ラスコーリニコフの虚無的な述懐。

 畢竟、ラスコーリニコフの殺人とはその内部構造に人類愛やニーチェの超人思想などが起爆剤として備わっていても、彼の肥大した観念が産出した一か無かの人生を賭した博打であり、それは偶然という必然を「強いた」超自然的な悪魔的力によるものだったのである。彼の理性はただその眼に見えない力の操り人形に過ぎなかった。
 彼は、彼はそんな博打をするべきでなかった……僕は、ずっとずっと彼にシンパシーを抱き続けてきた。15年もの間ずっと。何故なら、彼は、ラスコーリニコフという人間は、本来的に極めて心優しき人間であり、道を踏み外すべき人間ではなかったからだ。あんな選択を彼に強制させた魔的なるものをこそ、それをこそ見つめなければならない。透徹した精神で…。
 もし、時間が戻るなら、彼は全く別の行為をし、全く別の選択をしていたに違いないと、僕は思わざるを得ない…

 これは批評ではない。彼に仮託された……。殺人故にこの作品の世界的価値があるなどはわかっている。


 「ラスコーリニコフは近ごろ迷信的になっていた。その痕跡は後々までも長く残って、ほとんど消しがたいものになってしまった。この事件ぜんたいに関しても、彼はその後いつも一種の不可思議性、神秘性を感じた。そして特殊な力の作用と、様々な偶然の一致が存在するように感じた。」
 
 彼が感じた「不可思議性、神秘性」こそ、実にも彼を殺人の刑場へと誘う悪魔の尻尾であり、その禍禍しい存在は否応なく彼を殺人へと駆り立てていった。マルメラードフとの出会い、彼によって聞かされた彼の一家の窮状。母の手紙。妹ドゥーニャの自己犠牲。酔っぱらった少女。痩せ馬殺しの夢。リザヴェータ不在の知らせ。全てが彼を、ただの夢想者に押し留めていくか、それとも一歩を踏み出すテロリストとして引き上げるかという神と悪魔の鬩ぎあいであった。それはさながら荒野の問答であるが、神が悪魔を退けた聖書の記述とは異なり、ラスコーリニコフの場合、神はほとんど彼に手助けをしない。まるで悪魔によって導かれていく彼をただ沈思黙考しながら見つめつづけているようだ。
 
 ラスコーリニコフは近代ロシア社会のなかで自らの強い意思と理性的な判断によって事を成そうとする西欧個人主義思想の申し子のような存在として描かれており、実際、彼の思想と行動は彼自身によって選択され醸成され、実際的行為へと形付けられていったように思える。しかし真実は違う。彼のその主意的な理性は悪魔によって利用されたのである。彼の力の及ばない何か超越的な導きが彼を殺人という刑場へ誘い、その力に何ら強靭な抵抗すらできないまま彼は殺人を遂行したのである。つまり、彼の殺人はその意味では必然的であったとも言える。どんなに彼が抗おうとも(最終的に抗えなかった―彼は自分の生来的本性に対し無力であった―)、どんなに彼が嫌悪し、その妄想を放棄しようと勤めたとしても、悪の見えざる手は彼を殺人という血塗られた現実へと誘導していったのだ。
 
 看過してはならないことがある。それは、殺人の契機は、彼の内部に沸々と湧出されていた博愛主義的妄想にあったという事である。殺人にまで高められた思想の雛型は、彼の善良で、純潔さと博愛精神に満ちた高貴さにある。それはつまり、社会のなかで不当に辱められ、利用され搾取されつづける虐げられし人々達への共苦。そして、それを無慈悲に容認する社会への呪詛。彼の純真さを権力主義にまで高め、終には「自分は人間か虱か」という極限の地平にまで引き上げて利用したのが悪魔なのである。京極夏彦は小説『魍魎の匣』のなかで、理由なき殺人、本人もまったく何故殺害してしまったのかてんで見当もつかないような事件に際して、それらが「憑き物」がついてしまったからだと作中人物の口を借りて述べているが、ラスコーリニコフのケースも彼の身体に邪悪な憑き物が憑依してしまったのである。ただ、彼の場合、その自意識過剰さと誇り高き性格から真っ当な理由をいくつも列挙するが、彼自身それらが自己欺瞞に過ぎないということは自覚的なのである。だ