harustory’s diary

日々の思索、その物語

大学入試国語の文章の滋味を知る肝要さ

ニーズに応える事が専門職たる証である。教師を一般化する勿れ。僕は自身をプロだと思っている。

その自負の下、「入試現代文はどうしたらできるようになるか」という究極命題に答えるならば、それは"文章を広義的意味において楽しめるか否か"に解は収斂されるはずだ。

先日、駿台版東大25ヶ年現代文は、それ自体一つの現代文参考書であるかの如き名文であり、立ち読みしてでも全て読むことを薦める旨の投稿をしたが、駿台は予備校でありながら、そういう本質的な部分を一義に考えている点で非常に共感がもてる。皮肉なことに、その追求が、駿台文庫の"傾向性"として学参レベルを超えた記述に著者を駆り立てさせ、結句、限られた時間内で合格する合目的的効率性から逸脱する事になるのだが。(つまり、駿台文庫の学参は良くも悪くも学術書のカテゴリーに近接性があるのだ。)

また、駿台が何故かかる本質の追求を理念とするかだが、駿台が難関国公立大学合格の為の学力養成を第一としている所以であろう。あれだけ記述式の模試が多く、冠模試では頑ななまでに早慶を実施しないのは、「求められる記述、論述式への適切な解答こそが入試という次元における学力の意味するところである」という上述の理念の如実な反映であろう。


話が駿台に傾斜したが、畢竟するに、現代文が出来るものは文章を楽しんでいる。換言すれば、文章と出題者との間を中間子のように揺曳しながら、自らをも主体的な参加者(実体)として確かにダイアローグしている。それが、現代文が得意な人間である。そこには、肉体的疲労はあろうとも精神的苦痛は生じない。設問に応答する思考すら、その熟考における必然的な結果としての苦痛すら、広義的には楽しみに還元されるからである。冒頭に"広義的な"と修飾語を付した謂はその為である。

従って、現代文をする際にどうしても苦痛を覚えてしまうものは、その苦痛の原因が何に由来しているかを真摯に、客観視して見極め、その苦痛の因子を除去する必要がある。これは西洋医学の外科手術だ。状況を多角的に分析し、その上で原因を診断し、そしてその病巣をえぐり取る。

現代文が苦手な者は、自らが医者になり、自らがまた患者になる必要がある。このアンビバレンツの先にしか「楽しむ」という健康なあり様は存在しない。