harustory’s diary

日々の思索、その物語

仏教伝来

日本では仏教は「鎮護国家」の為に導入され、国家的な内憂外患に対して霊的に備える為のものであった。それは形式的には鎌倉時代までは続いて行く。つまり、仏教は民衆のものではなく皇族貴族層の為のものであった。
古代の日本仏教は、そうした流れの中で、律宗法相宗華厳宗と言った南都六宗のような教典研究を行う学問重視型のタイプと、密教と呼ばれる天台宗真言宗のような「加持祈祷」で国家守護や皇族貴族個人の願いを叶えるテクノロジーとしての仏教に分かれていく。
どちらにせよ、仏教は完全に上層部の為の宗教であった。(だから戒壇は国家が管理していた。)
その中で、行基空也といった寺院に所属しない"上人"または"ひじり"と呼ばれる僧によって民衆に布教されるが、民衆に浸透するには至らなかった。
平安末から鎌倉にかけての混乱期に天台宗の僧であった法然が、「易行」を特色とする「浄土宗」を開く。
従来は「出家」を前提としていた「救い」が、「在家」のままでも念仏をただひたすら唱えることで、阿弥陀世界に導かれ「救われる」と説いたのは革新的とも言えることであった。
法然の思想を、更に簡略易行化し、心の中で一度でも阿弥陀佛を念ずれば救われると説いたのが親鸞
また佛よりもというと語弊がありますが、法華経原理主義鎮護国家を説いたのが日蓮法華経を信仰すれば国家も個人も安泰であるという宗派。
鎌倉中期に至って一遍が登場することとなる。
一遍は熊野での霊的体験を経て「踊り念仏」で民衆(時衆)を引き連れ日本中を布教して歩きまわる。
現在、一遍はあまり顧みられていないが、僕は中世から近世初期の民衆と民衆文化に最も影響を与えたの宗教者は一遍だと思っている。(文献によると、中世民衆史の常識と認識されているよう。)
従って、一遍を語らずに中世の民衆史は語れない。一遍と熊野、一遍と四天王寺の関係を知らずに中世民衆文芸は語れない。
これほど大きな足跡を遺している一遍がほぼ教科書から抹殺されているのは、教科書の日本史が支配者層の歴史とイコールであることを物語っているであろう。