harustory’s diary

日々の思索、その物語

美しい人

「『私は美しい存在でなければならない。』 この妄念はずっと、今に至るまで終始私を苦しめつづけたわ。まるで自分の意思をこえた何か悪魔的な存在が常に私を駆り立て続けては私の精神を支配してしまっていたようだった。

 女学生時代だったかしら、私は自分が特別な存在だと思うようになったの。『白皙の美男』なんていうけれど、私は白皙の美少女だったわ。肌理の細かいあの肌。弾力があって光を反射して輝いているあの肌。肌だけじゃないわ。すっと整った鼻梁に滑らかな曲線を描く輪郭。くっきりとりりしく、黒目がちな双眸。豊かでつやつやとした髪。その髪が風になびいたときのなんともいえぬかぐわしいあの香り。ああ、私、自分でも毎日のようにうっとりとしていたわ。

 そう、私にとって特別な存在というのは容貌の美しさ、ただそれだけだったのよ。このときからね、私は、自分は特別に美しくなければならないと悟ったの。美しくありつづけなければならないってね。なぜなら、小説や活動写真のヒロインは私にとってみんなみんな外見の美しい存在であり、その「美しさ」ゆえにこそ彼女達の知性も苦悩も喜悦も悲哀も、人生における全てが特別なものたりえたから。高尚な苦悩は苦悩の高遠さゆえでなく、苦悩するものの美しさゆえに高尚であり、悲劇の悲劇たる所以も、その者の美しさに求められるのであって、美しくなければただ滑稽なだけであるか、いささかの憐憫をもって粉塵のように時の風に飛ばされてしまうの。ハムレットのオフィーリアの悲劇はとても美しいでしょう!あの水死しした彼女の有名な絵画を見たかしら。なんて豊麗で瑞々しく蠱惑的な死に様であることでしょう!何故だかわかるかしら。オフィーリアが美しき女性だったからよ!それにつきるわ。

 女性がどれ程に外見に命を、そうまさに命をかけるがごとき必死さで美を追求しているか、貴方達にはわからないでしょうね。まあ、無理もないわね。教えてあげる。美しいプロポーションを保つ為に節制は欠かせないわ。夜八時を過ぎたら決して食事を取らない。水分や塩分の摂取もナンセンスよ。朝鏡を見て顔がむくんだときのおぞましさは形容し難いほど嫌だから。週一回のパック。浴室では半身浴をして汗を出し毛穴を広げてから洗顔をするのよ。勿論、きめ細かい泡で優しく包むように洗うの。これは、この時代では珍しいことよね。そしてプラセンタとビタミンCローション含有化粧水の補給を肌にして、保湿液でしっとりと包んであげる。私は両親が皮膚科医だからこういうものを所持しているのだけれど、あまり聞きなれない言葉ですわね。あとコラーゲンの摂取も欠かせないわ。このときはビタミンCもどうじにとる必要があるの。補完しあうからね。部屋は湿度を保って乾燥しないように心掛けるわ。そして顔の筋肉を鍛えるの。

 髪の手入れも肌と同じくらい重要よ。平安女性は髪の美しさこそがその女性の外見的魅力を決定したのよ。毎日綺麗につげの櫛で梳かしてあげるの。私はね、朝朝起きると完璧に整えられた髪でなければ、たとえその日が大切な試験の日であろうと、また旅行の当日であろうと、どんなことがあったって門扉を開け一歩を踏み出していくことはできなかったわ。満足いく髪、納得いく容姿を自分に認めさせはじめて私の足は外に向かうことができるの。道中、私は自分の立ち振る舞いや白く透き通った肌、風に靡く髪をみているであろう周囲の私に対する畏怖と賞賛の混交した羨望の眼差しを妄想しては陶酔し悦に浸っていたわ。学校に着いても常に鏡で己の姿を確認しその美貌でもって自分を奮い立たせていたのよ。」

 

 僕達は彼女の長広舌をきいて一言も口を挟むことができなかった。彼女の口吻には執念というか、なにか鬼気迫るものがあり、僕達は圧倒されてしまっていたのだ。


 「いつからだっただろう。私は迫りくる恐ろしい予兆を感じ始めたわ。それは美の崩壊。そう、この決して訪れてはならないものを私はこの頃感じざるを得なくなったの。ああ、この絶望的な苦悶といったら。鏡をみようとするときのあの、胸が引き裂かれそうなほどの思い。

 私はね、三島由紀夫も私と同じ様なものを抱えていたのだと思うの。康成もそうかしらね。『眠れる美女』なんか夢中になって読んだものだわ。でも、今は三島の話をさせてね。彼もね、私は自分に迫ってくる美の崩壊というものを極度に恐れていたと思うの。恐怖し、周章狼狽していたと思う。彼はね、自分の中に、自分にとってのと言ったほうがいいかしら、絶対的な、それはつまり理想的な美の形象を見出していたわ。その絶対的美は彼にとって決して手の届かないものであり永遠の憧憬であった。『金閣寺』なんかは、私結局そういうことを言いたかったのだと思うの。あの作品はね、金閣寺という、絶対的な美に対する三島の倒錯した愛情が示されているのよ。何で破壊しなければならぬと思ったと思う?彼にとって金閣の美は絶対に掴むことが出来ないものだったからよ。自分とは凡そ懸隔した金閣の圧倒的美に畏敬の念を抱懐しつつも、その隔絶された不可侵な美が自分とは無縁に存在していることが苦痛で、また許せなかったの。この撞着の末にとうと、彼はこう思った。金閣を破壊すれば、美は絶対のもの、永遠なるものではなくなり、三島にとって自分の内に引き込むことが可能なものへと変容する。だからこそ、彼は空襲での破壊を願い、それが無理と知るや破壊衝動が芽生えたのよ。主人公溝口の内面は三島のそれが投影されたものなの。小林秀雄は知っているでしょう。彼はね、この小説は小説でなくコンフェッション、つまり告白であるといったわ。そうよ、これは告白なのよ、まさしく。三島の美への思いを吐露した告白文。それが『金閣寺』なの。

 私は感動して涙が止まらなかったわ。美が崩壊していくことを耐えがたき懊悩と感ずるのは、自らの内に理想としての美というものが確固として存在しているからなのよ!これは偶像崇拝よ。そして、その偶像をただ崇めるのみならず、自分もその一部たらんと志しながらも、もはや自分がそこから不可避的に、酒用のない自然の摂理の力によっては離れてしまったのだと確信するとき(そう、確信なの!)己の奥底で何かが瓦解し破壊的衝動が生まれるのを意識するのよ。

 結局私が言いたいことはね、顔こそが全てということよ!そう、顔が全てなのよっ!顔さえよかったなら他のどんな辛い事だって私はきっと耐えることができるわ。もし、顔に大やけどをして醜いケロイドが私の外貌を覆ったとしたら、私はそんな自分のままで人に優しくすることなんて決してできないわ!私はそんな人間じゃないっ!

 貴方達、醜形恐怖症って病気知ってる?精神疾患の一種なのだけれど、これは自分の顔が醜くて醜くてどうしようもないって思い続けてしまうものなの。私は親が医師だから質問したことがあるのだけれど、お父さんの仲間の精神科医によれば、醜形恐怖症って、多くの患者は客観的にみてわりと綺麗な顔立ちをしているんだって。だから、人から容姿について褒められたりすることもあったりするのよ。でもね、本人達はそんな周りの声は全然役に立たないらしい。本人達の主観にとっては、あまりに自分が醜いと思い込んでしまっているから。これも悲惨な話よね。

 まあ、これはいいとして、この醜形恐怖症だけれども、私はこの病気には二種類あると勝手に考えているの。一つは今言ったように、自分が醜いと確信、盲信してしまってそのことを絶望的なまでに悲観し、そんな状態が恒常的に存続していく強迫的な観念の病理。もう一つ、これは私の私見にすぎないけれど、現時点に於いて醜いと思ってしまう状態にあるのではなく、いずれ醜くなってしまうであろうことへの尋常ならざる恐怖。そして、その兆候を現在の顔に見出してしまうことの懊悩。強迫性障害でいうところの予期不安ってやつね。尤も醜形恐怖症も強迫性障害に含まれるのだけれどね。

 この私が考える後者のケースはちょっと特殊でね、自分がとても美しいと感じるときも多ければ、その予兆も含め醜いと感じるときもあるの。このタイプの人達は現在まだ満足できる容姿を保持できているという事実を励みにして一日一日を生きている人達だと思うわ。こういう人達は苦悩者には違いないけれど、ナルシスティックな苦悩者とも言えるわね。

 私は脆い人間よ。この脆さはとても微妙で、表面的なところで自信と連結されているの。そしてそれは些細な揺らぎで行ったり来たりする。この表面、いまさら表面なんて表現もおかしいわね、外見、これが崩れたとき私の内面が空洞であったならば、私はきっと発狂して死ぬわ。

 確かに、この死は情けないとの謗りを受けるかもしれない。私も惨めで恥辱であると思っているわよ。できうるならば、そのような見苦しく醜悪な死を私は自分自身に許したくはないと思っている。

 ならば、そんな醜態を晒す前に私は自害すればいいのではないかとも考えたわ。表面、外見が崩れないうちにね。でも、それは私自身が未来の愚劣なる死に恐々とする為に今死ぬことを正当化しているという正にその点に於いてやはり愚劣なのよ。浅ましく、汚らわしいのよ。

 では、どうすればよいのか。外見が崩れないことか、乃至は外見が崩れても内部が空洞化されていないこと、これしかないのだと思う。

私はまだ、容貌が見るに耐えぬほど崩れ始めても理性を保てるほどに気が充溢していないわ。そして、美こそ全てと考える私にとって内部を充実させる、内部に相応の価値を置く自信もまたないの