harustory’s diary

日々の思索、その物語

山口達也事件について

TOKIO4人による謝罪会見を観た。不謹慎と誹られるかもしれないが、最初に湧出した感情は「感動」であった。何に感じて心動かされたのか。端的に言えば、メンバー4人が心底から謝罪の意を示しているその誠実さ、その姿勢、その本気である。特に松岡昌宏氏の言葉は壮絶であった。切腹前の武士のような凄み、凄絶で壮烈な魂の咆哮であった。

あの会見を観た者の一体誰がTOKIO4人を断罪できるであろうか。腐敗し尽くした感のある権力者達の忖度に忖度を糊塗した、おぞましく、醜悪で見るに耐えない、瞋恚の念を齎す以外の他何らの意義も見出せない、空虚な会見という名な茶番劇をさんざん見せつけられてきた僕達にとって、TOKIOの真摯な姿は正に感動であり、人間的な美しさを象徴するものであった。少なくとも、僕自身はそう感じている。

山口達也が犯した罪は小さくない。「小さくない」と濁した表現をしているのは僕等にはどうしても事件の全容が知り得ないからである。どんな事件にも背景が、そうなるに至った文脈がある。物語は文脈においてある種のテーマ性を内包したものとして形象される。それは現実でも同様である。否、「事実は小説よりも奇なり」ではないが、弁護士の兄をもつ僕は、事件がとてつもなく複雑なコンテクストの中で縒り合わせられていく事を知悉している。生々しいリアルを実感している。

これは被害者を貶め、山口達也を擁護するものではない。その様な単純で軽々な判断が許されないというわけである。僕等が信憑性ある情報として知っているのは、彼が「未成年を自宅に呼び、無理やりキスをした。」というものだけである。これをもって僕は罪は小さくはない、と解釈しているのである。それ以上はわからない物語。真実は、起訴猶予となった以上、当事者と神のみぞ知る。どの様な感情で被害者が彼の自宅に行ったのか?その行動は全く責められるべきものではないのか?山口達也は本当にキスをしただけなのか。暴言は?乱暴行為は?そうしたディテールを排し、一元的に一刀両断する審判者は傲慢の誹りを免れないであろう。汝自身を知れ、である。


ところで、TOKIO4人があれほどの会見をするに至り、山口達也が描いていた未来を剥奪される程に未成年という存在は、ただ未成年であるという事実だけで社会から圧倒的なまでに庇護されている。最も顕著な例は少年犯罪である事に異論はないだろう。市民感情として到底許すべからざる残虐な犯罪(無論殺人も含まれている。)をしても、彼等彼女等は、「未成年」という金科玉条の掟により、年齢上の差異はあるが、罰の執行が主体的に為されるのでは無く「更生」という教育を施される。社会通念とどれ程に懸隔していたとしても未成年にはまず罰より教育ありきなのである。

山口達也強制わいせつ事件において、未成年は確かに被害者である。しかし、未成年である被害者は自分の存在が社会に与える甚大な影響に自覚的であらねばならないと思う。それでこそ、山口達也TOKIO4人も救われるし、被害者自身も人格的に成長されて行く。何故か。未成年という存在はいつの時代であっても社会を、未来を担っていかなければならない責任を必然的に帯びた存在だからである。未来、社会の繁栄と世界全体の調和的共生は、常に未成年が成長していく過程において先を行く者から託されていくからだ。受け継ぎ、更新していく道程が種としての人間が築くべき歴史であるからだ。

この希望があればこそ、未成年は社会からその立場のゆるやかなる事を全的に許容されている。そのゆるやかさに無自覚であってはならない。未成年は未成年としての自覚を持ち生きていかなければならない。たとえそこに拭難き苦悩があっても、僕は未成年には希望と使命感を抱懐してこの社会を生き抜いていってほしい。