harustory’s diary

日々の思索、その物語

孤愁

  夕刻。逢う魔が時などと言うが、僕は夕暮れのなんともいえない色彩が好きだった。殊、晩秋から冬にかけて、沈みゆく西陽とともに暗闇が空を鈍色に染めゆく、あの空の感じに陶然とした倒錯的寂寥を覚える。それは確かに寂しさの同化なのであるが、彼をしてうっとりと酔わせるのである。魔がいるとするなら、この色と気配ではないだろうかと僕はいつも感じる。
 ふと、どこかの商店が活気に満ちた声でもって初秋の空気を裂いていた。僕ははっとして街を眺めた。街は多彩なの顔に満ちていた。僕はこの時まで、今が正にそういう時節なのだと気が付かなかった。正確には、まるで実感を持つことがなかった。そうして、僕はこの賑わいに自分独り取り残されているような感覚を覚えた。
 書店に着いた。彼の目的は本を物色することであった。
 ところで、人は苦悩し続けられる存在であろうか。僕は最早癖になりつつある観念に耽けた。人は、苦悩し続けられる程には強く創られてはいないのではないか。耐え難き憂苦に苛まれていても、そこにはどうしたって苦しみが途切れる間隙がある。その隙間に煩悩が入り込むんだ。涅槃を志す者は、その空白を修行をもって払拭しようとするわけであるが、俗世の人間にとってその空白は無聊となる。   

   退屈はそして苦患へと変質する。だから、あたかも苦しみが際限なく連続しているように感じられるのである。暇という名の苦しみは、当座自分を悩ませているものとは切り離されており、全体との連関をもたない。容易に解消可能であるし、解消すべきであろうとする。それは、飲食であったり、遊興であったり、はたまた芸術や読書であったりする。

 大学の帰りに立ち寄る馴染みの本屋に入れば僕のルートは既に決まっている。入り口正面に平積みされている文庫とハードカバー類の書をチェックしてから、そのまま真っ直ぐ、右手に文庫コーナー、左手に新刊本や雑誌が並べられている道を進む。そうして、文学や哲学なんかの思想書が陳列されている一角へと移動する。
    出し抜けに違和感を覚えた。
 ところで、僕にとって思想書は幼少期から非常に馴染み深いものであり、必然、僕の人格形成に大きく影響したものである。しかし今、僕は文学や哲学といった思索の豊饒の海にこの身を浸すことを自身に肯んじることが出来なかった。「拒否しろ拒否しろ拒否しろ拒否しろ!」そんな心の叫びが脳髄に反響して僕に疼痛を与えていた。
 この体験は僕を愕然とさせた。これは決して「今はそういう気分ではない」といった種のものではなく、「失ってはならない何か大切なものを喪失してしまったのではないか」、そんな感傷を付与させる事件であったのである。

  くだらない…。何もかもくだらない。虚しい。虚無はリフレインとなって僕に反響し続けている。