harustory’s diary

日々の思索、その物語

三島由紀夫『金閣寺』に於ける美の観念

美を愛し、美を憧憬し続けた三島由紀夫。1970年11月、池袋東武百貨店にて「三島由紀夫展」が開催された。誰もがこれからの彼の活躍を疑わなかった。しかし、同月の25日、『豊饒の海第4部-「天人五衰」最終原稿を新潮社に渡した三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地へとおもむき、自衛隊の決起を促した果てに、東部方面総監室で割腹自殺を遂げた。彰武院文鑑公威居士の戒名を受けた三島由紀夫は、存命していればノーベル文学賞は間違いない人物であろうはずであった。

その偉大なる三島由紀夫の代表作の一つ『金閣寺』について、作中の「美」という観念に焦点を絞り所感を述べていく。


  三島由紀夫。彼は自らに迫ってくる「美の崩壊」を極度に恐れていたであろう。恐怖し、周章狼狽していたであろう。彼は、己の内に絶対的なもの、それはつまり理想的な美の形象を見出していた。三島は肉体改造を決心した。それは迫りくる美の崩壊という魔手への人間的な最大限の抵抗であり、形而上学存在への精一杯の反駁であった。

  しかるに、絶対的な存在たる美は彼にとって決して手の届かないものであった。永遠に憧憬の対象であった。それが三島をして『金閣寺』の執筆へと向かわしめた。金閣放火は表層的機縁に過ぎない。

  この作品は「金閣寺」という三島(主人公の青年、溝口。これは三島由紀夫自身の投影である。小林秀雄は『金閣寺』を小説に非ず、コンフェッションであると述べたというが慧眼であろう。)にとっての「絶対的な美」に対する彼の倒錯した愛情が示されている。

  なにゆえに三島は金閣寺を破壊しなければならぬと思ったであろうか。その激烈なる破壊衝動の源泉はどこに存しているであろうか。何故、三島は崇拝の対象であった金閣寺を嫌悪し、憎み、呪詛し、醜怪な化物の如くに忌避し、しかるに執着し、懸想し、そして殺意を催したのか。それは、三島にとって金閣の美は"絶対に掴むことが出来ないもの"だったからである。

  自分とは凡そ懸隔した金閣の圧倒的美に畏敬の念を抱懐しつつも、その隔絶された不可侵な美が自分とは無縁に存在していることが三島には信じられなかった。ありえなかった。苦痛で、許せなかった。この地獄的煩悶と呻吟の果てに、彼は、こう、決心した。


金閣を焼かねばならぬ」


  金閣を破壊すれば、美は絶対のもの、永遠なるものではなくなり、三島にとって自分の内に引き込むことが可能なものへと変容する。だからこそ、彼は空襲での破壊を願い、それが無理と知るや破壊衝動が芽生えた。

 

  僕は感動した!落涙を禁じ得なかった!何故というに、美が崩壊していくことを耐えがたき懊悩と感ずるのは、自らの内に理想としての美というものが確固として存在しているからである‼︎

  これは偶像崇拝。そして、その偶像をただ崇めるのみならず、自分もその一部たらんと心底渇望しながら、もはや自分がそこから不可避的に、仮借なき自然摂理の力によって逕庭してしまったと確信するとき(そう、確信である!)己の奥底で何かが瓦解し破壊的衝動が生まれる自分自身を意識するのだ。