harustory’s diary

日々の思索、その物語

『大つごもり』樋口一葉-罪の意識-

「おゝ堪えがたと竈の前に火なぶりの一分は一時にのびて、割木ほどの事も大台にして叱りとばさるゝ婢女(た)の身つらや」

 かかる引用からも感じられるように、『大つごもり』を、厳しい境涯を甘受している下女の物語」という主題の下、私小説的に読む事に無理はない。実際、樋口一葉は17歳の頃の父の死をきっかけに生活苦を余儀なくされている。

  窮乏生活で艱難辛苦した一葉の自叙伝的性格の点出は、「女性の哀れさ」をテーマとし、社会小説的なモチーフを抒情豊かに扱う樋口一葉の作家的思想と逕庭しない。『大つごもり』もまた、お峯の女中としての境遇を当時の社会的世相との関連に於いて考察する評は散見されており、結句それは一つの強固な論理性を形成しているが、本稿では、作品の基調低音を成す貧困の問題はあくまで副次的に取り上げ、よりお峯(主人公)の内面に肉迫していこうと思う。

 お峯の科白中の白眉な場面を、"彼女が罪の意識に呻吟しながらも金銭を拝借する"ところにみる。かかる表白以上に彼女の性向が内面化されているところは皆無であり、自責し苦悶する彼女の姿からは、彼女の分裂した精神とも形容されるべき気質が露見している。「分裂した精神」とは、一方では家系を慮り一家に汚名や苦労を与えまいとする淑やかな善良さのなかにあって垣間見られる気位であり、もう一方は美徳や矜持を抱懐しつつも敬愛する伯父家族の淡い安楽の為に自己犠牲的精神から金を盗もうとする恥辱である。
 「気位と恥辱」という懸隔した魂の分裂にこそ『大つごもり』の本領があるのではないだろうか。逆に言えば、お峯の隔たっているその意識に胚胎している煩悶、悲哀を感取できなければ作品に揺曳している陰鬱さやその要因としてある貧困故の憂苦も本質的な意味で感得すること能わないであろう。

「拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする」
「犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻の仕業はと今更夢路を辿りて」

 こうしたお峯の言葉からは、自身を責め苛んでは懊悩している彼女の心がわかるが、着目すべきは彼女の観念に神仏の存在が生起されていることである。金科玉条たる社会律法に悖る行為から、彼女は罪を自覚しているのではない。自身の胸中で醸成された牢固とした内なる倫理規範を逸脱したからこそ罪深さを覚えているのである。その規範意識は社会的常識によるところの外的なものではなく、神や仏といった形而上的な、それは内的なものから形象されている。つまり、「法律に背いたから葛藤し、苦しんでいる」という意識ではなく、苦悩の本源を彼女自身の主体性のもとに内在化させ、それ故にこそ、彼女は煩悶しなければならないのである。「自らの問題として引き受ける」ことは現代倫理の課題の一つであるが、この作品はそういう意味で現代的問題意識を蔵した心理小説の側面を有している。
 『大つごもり』の別の妙味は、お峯と対蹠する人物として石之助が配置されているところにも見られるであろう。彼は狡猾で豪放磊落な性格であり、吝嗇とは無縁な人物である。家族に金銭を無心することも勝手に持ち出すことも意に介すことはない。この彼にあって、お峯の自意識による悲愴感は鮮明となる。
 近代拝金主義的背景を舞台装置とし、各人物の価値観の相違を点綴させながらお峯の悲愴な自意識を作品中に屹立させる一葉の構成力は見事である。そして、お峯の倫理観と相反する石之助が結果として彼女を救うこととなる最後はアイロニカルであり秀逸な演出であろう。