harustory’s diary

日々の思索、その物語

闘い

「詩人たちの生涯に目を通した。彼等はいずれも不幸だった。(中略)僕はこう云う彼等の不幸に残酷な悪意に充ち満ちた歓びを感じずにはいられなかった。」芥川龍之介『歯車』


  何もかもが嫌で嫌でどうしようもなくて、人生を悲観し世の中を呪い、憔悴し尽くしては無気力となり、気が狂いそうな時間のなかで、ただただ家中を蹌ろうと徘徊しては絶望的な気分でその場に崩れ落ち、頭を抱え、涙を流し、そうしながらも無機質で無慈悲な時間の悪魔的力に負けては、やがて立ち上がり、しかし何もすることが出来ず『白痴』のイッポリートのように、茫然と壁の一点だけを見ることを余儀なくされている「鮮明なる自失」の状態で、嫌らしい胸の拍動に懊悩しながら、死が何か具体的なものとして迫りくる感覚に漠たる甘美さと恐ろしさを覚えては戦々恐々となり、「なんとかしなければ」という抜き差しならない、地獄の責め苦の如き焦慮に駆り立てられ、昼過ぎ、三時頃の子供達の快活で無邪気な声が、その溌剌たる声色を増幅させながら僕を圧迫させてくること、それを己の境遇に対する憐れさなのだと認めている事実に自嘲、呪咀しながらも、やがて僕は、西日が部屋を染め上げ、次第にその色彩を夕闇へと包み込んでいく夕刻、幾何かの平静と根拠のない期待が自分を多少なりとそわそわとした心持ちにさせている奇妙さに苦笑しつつ、文机の椅子に腰を下ろし書を広げ、それでも止むことなき形容し難い不安と寂寥と倦怠に苦患し、人生を落伍していく破滅的な恐怖に矢も盾もたまらなくなり、ばたんと持っていた本を閉じては、提出期限の迫った課題が現実上の問題となって茫洋の彼方からその輪郭を現してくるのを知覚し、斯く作用が僕をして実際の目的、目標に対処しなければならないとの念を喚起させ、そうした袋小路が生み出す人間心理の結果としての力によって一心不乱、臥薪嘗胆の必死さでもって、生きていく為、今やるべきこと、やらなければならないことに僕は向かおうとするのであるが、漸次その気概も、時の経過から堆積し固着、慢性化された病的なまでの強迫観念とそれによるとらわれ、一元的思考、決め付け、自己否定、失意に負け、眼前に在る巨大な、「現実」という名の困難を正対しありのままに引き受けようとする心も減退し、結句、安逸の汚泥に浸り自堕落な自分に倒錯した快楽を見出だすことで精神的安定を図ろうとするのであるが、かかる機序が自己欺瞞であるとの絶望的認識は、僕が自分を完全なる廃人、駄目人間、淫逸者とするに敵対する勢力として陽炎のように僕と対峙し揺曳することとなり、挙げ句、僕は分裂する自己にただ煩悶し、疲弊し、どかっとベッドに滑落していくこととなり、時間がこのまま永劫止まってくれることを、一生涯眠ったままでいることを、夜が明け、忌々しい朝が更新されることがないことを、つまりは永久に漆黒の闇に埋没したままでいることを渇望しながら、遣る瀬なき苦しみという痛覚をずっとずっと甘受していこうと感じているのである。


「世の中を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」(万葉集
 
  ああ、教えてくれ!かの偉大なる人々は一体いかにしてあんな苦患にたえることが出来たのか!
  食べるものもままならない。喉を潤す一杯のお茶もない。寒さをしのぐ暖炉も、部屋をともす灯りもない。外へでれば債権者、悪鬼のような高利貸しどもの執拗な追跡に怯えなければならない。妻は精神性の病で臥しており、異常なまでの自尊心から嫉妬と疑念と不安に苛まれるなか、それでも生きるために、そう、まさに"生きていくため"に、恥も外聞も捨て作家達は創作をしなければならない。

  彼は金の無心にはしる。糊口をしのがなければならない。借金に借金を重ねる。それはまさに地獄絵図。
 ああ、貧困とはどんなにか人を苦しませ、どんなにか人の心を締め上げては利己的にすることでしょうか!
 無二の親友彼の兄が病に倒れ他界する。哀れなる多重債務の扶養者は、幼い子供たちに食べるものも着る服も教育も与えられない。 
 それでも彼等は負けない。辛辣な世の運命に蹂躙されつくすことなく、人生の奈落から這上がりついには至高の芸術を創りあげたのだ!後世にその名を刻んだのだ!
 おお、なんと陳腐な表現だろう!僕の口吻が、僕の口から発せられる言葉が、偉大なる人々について語らんとするとき、どんなにそれが安っぽい言辞となることであろうか!何故なら、これはすべてただの言葉で、僕はまだ実際に窮乏してすらいないんだからね‼︎(これからどうなるか、それは神のみぞしるですよ。もう、賽は投げられたのだ…)
 でも、それであろうとも、僕は今彼らを称えたくてたまらない気持ちなんだ!ああ、このことは過去にもあった。そう、これは過去の文章をもとに再構成している。でもそれがなんであろう。そんなことどうでもいいことで、くだらないことだよ。偉大なる芸術家達の強さを(ああ、こんなありきたりな表現を許してほしい)、その力づよい生の躍動を、僕は自らのなかに取り組みたくてしかたないのだ!
 
 「強さ?お前は何を知っているというのだい。」ああ、だまれだまれだまれっ!!僕が、僕が今どれ程にそれを渇望しているかお前にわかってたまるか!お前は僕の陽炎だよ。蜃気楼だ。影法師だ。砂上の楼閣だ。だまれ!いい加減に消えうせろっ!!
 
 今までの人生においてこれほどまでの自覚が僕に一体あったであろうか! 諸君はウンザリしているかもしれない。またか、また悲劇のヒロインきどりか、と。そうかもしれない。僕は能無しで弱虫で猜疑心と自尊心だけが強いせいで見るも無残な生活を余儀なくされてきた一匹のイモムシだよ!

「はは、今読むと滑稽だね、正に。お前のどこが無残なんだよ、え。」

ええ、だまれと言っているだろっ!いい加減にしないとその首をへし折ってやるからな!
 いや、これはイモムシに失礼甚だしい!イモムシは懸命に己の生を生きている。生きぬかんとしている。そこには一生懸命さがある。それは闘いであり、闘いこそは人生なのだ。田中慎弥は『蛹』のなかで、昆虫の生命の神秘を描破した。あれこそ闘いの記録だ。そう、だからこの"懸命"が肝心だよ。なによりもこれだけが肝心だっていってもいい。イモムシの全ての誇りがこの懸命にあるんだ。そしてそれゆえにイモムシは尊敬に値する。
 ああ、なぜ僕は自分をイモムシなどと言えただろうか!なぜにイモムシと僕が同等に並べられるだろうか!いや、待ってくれっ!わかっているよ!十分に承知している!僕は諸君らの言わんとしていることはわかるよ。だからちょっと待ってほしい。なにも僕は卑屈になっているんじゃないんだ。ましてイモムシを皮肉って馬鹿にしているわけでも当然ない。あくまで、僕は事実を、事実だけを単純にかつ淡々と列挙しているだけなんだ。

「きみはイモムシ以下だなんて自分を蔑む必要はないよ。きみにも立派な、人に誇れる高潔な心があるんだから。」なんて言葉や思いを暗に欲しているわけじゃないんだ。何も歓心を買いたいわけじゃない。信じてほしい。 
 僕はイモムシとはとても同類ではない。あえていえば殺人前後のラスコーリニコフというとこだろうか。その存在に価値を見出せない。世界から孤絶された感覚。圧迫され続けることの苦悩。 


 「その男はあのリザヴェータを……殺そうとは思わなかったんだ……その男はあれを……ほんのはずみで殺したのだ……その男はばばあだけを殺そうと思ったのだ……<…>」
 
  彼はソーニャに自らの殺人について語るとき、あたかもそれが自分の意思の及ばない、彼自身であって彼自身でない者の犯行であったかのように、「その男」と、まるで自分以外の別の人間が殺害をしたように語っている。ラスコーリニコフは老婆の頭上に斧を振り下ろすときに「力というものがまるでないようだった」が、このことは彼の計画がその最初から形骸化していたことを示唆している。社会の役にも立たないどころか害悪になっている老婆を殺すことは罪であるどころか善行であり、それをなすことは義務ですらあるという彼の思想は完全な自己欺瞞であって、彼自身もそんなことは実は信じていない。彼はただ殺した。試験するためにただ殺しただけである。彼の計画は、その試験のための殺人というあまりに陋劣な事実を隠蔽しておくための隠れ蓑に過ぎないのだ。これは悪魔の所業である。彼もこれが卑しく、醜悪極まりない愚劣な妄想だと気がついていた。しかし、偶然という必然の連続が彼を宿命的に殺人へと駆り立てていったのであり、彼がその呪われし運命の歯車となって悪魔にその身を引き渡したときに、彼の犯行は同時に彼以外の(意思の)者―「その男」―それでもあった。斧を老婆の頭蓋に直撃させたのはラスコーリニコフの内部に在る膂力ではなく、彼の身体に取り付いたサタンの中枢神経である。

 ついにソーニャは目の前のラスコーリニコフが老婆とリザヴェータを殺した人物だと悟る。そして彼女の前にいるその男こそが、今まさに世界で一番不幸な状態にあると確信する。

 「もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のようにどっと押し寄せて、みるみる彼の心をやわらげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつげにかかった。」
………………
  「ふん、なに、物を盗るためさ!もうよしてくれ、ソーニャ?」


 「知らない……ぼくはまだ腹が決まっていなかったんだ―その金を取るか、取らないか」

  強盗殺人ではないのだろうか。ソーニャは困惑する。「ふとソーニャの頭には『気ちがいではないだろうか?』という考えがひらめいた。」

 「ぼくはナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……さあ、これでわかるかい?」

 次にナポレオン願望。しかしそれも核心には至らない。「あなた、それよかありのままを話してくださいな……たとえ話なんか抜きにして」

 「だって、ぼくはただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、けがらわしい、有害なしらみを」

 今度はしらみだ。「だが、もっとも、ぼくはでたらめをいってるんだよ……ソーニャ」彼女はまた困惑する。

 「<…>頭脳と精神のしっかりした強い人間は、彼らの上に立つ主権者なのだ!多くをあえてなしうる人間が、群集にたいして権利を持つんだ!より多くのものを無視しうる人間は、群集にたいして立法者となるのだ!だれより最も多く敢然と実行しうる人間は、それこそ最も多く権利を持つことになるんだ!これは今までもそうでったし、これから先もずっとそうだろう!ただ盲目にはそれが見わけられないんだ!」
<…>
 ソーニャは、この陰鬱な教典が彼の信仰となり、法律となっているのを悟った。
<…>
 「権力というものは、ただそれを拾い上げるために、すすんで身を屈することのできる人にのみ与えられるのだ。そこにはただ一つ、たった一つしかない―すすんでやりさえすればいいのだ!(中略)で、ぼくは……ぼくは……それをあえてしたくなった、そして殺したのだ……ぼくはただあえてしたくなっただけなんだ、ソーニャ、これが原因の全部なんだよ!」

 ここにきてラスコーリニコフの口から真実が述べられる。彼の告白は余蘊ない。

 「<…>ぼくが自分で自分に向って、おれは権力をもっているかどうか?などと自問したり反省したりする以上、つまり、それを持たないわけだということが、ぼく自身にわかっていなかったのだなんて、まさかお前、そんなことを考えやしないだろうね。それから『人間はしらみかどうか?』などという問いをみずから発する以上、人間はぼくにとってしらみじゃない、ただこんな考えを夢にも頭に浮かべない人にとってのみ、なんら疑問なしに進みうる人にとってのみ、初めて人間はしらみであることを、ぼくが知らないと思っているのかい?<…>ぼくはそのとき知りたかったんだ、少しも早く―自分も皆と同じようなしらみか、それとも人間か、それを知らなければならなかったんだ。おれは踏み越すことができるかどうか?身を屈して拾い上げることを、あえてなしうるかどうか?おれはふるえおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか……」
<…>
 「<…>あのときは悪魔がぼくを引きずって行ったのだ。そして、悪魔のやつ、あとになってから、『お前はあんなまねをする権利を持っていなかったんだ、なぜって、お前もみんなと同じしらみにすぎないのだから』とぼくに説明しやがったんだ!悪魔がぼくを愚弄したんだ。<…>じつはね、あのとき、ぼくがばばあのとこへ行ったのは、ただ試験するために行ってみただけなんだ……それを承知しといてもらおう!」
 「そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!」
 「だが、いったい、どんなふうに殺したと思う?殺人てものは、あんなふうにするものだろうか?ぼくが出かけていったように、あんなふうに人を殺しに行くものだろうか……<…>いったいぼくはばばあを殺したんだろうか?いや、ぼくは自分を殺したんだ、ばばあを殺したんじゃない!ぼくはいきなりひと思いに、永久に自分を殺してしまったんだ……あのばばあを殺したのは悪魔だ、ぼくじゃない……もうたくさんだ、ソーニャ、たくさんだ!ぼくをうっちゃといてくれ」
 
 殺人の理由が彼の口から詳細に語られている。彼の犯罪理論は砂上の楼閣であった。そもそも彼自身、その初めから己の空想には全面的に信を置けなかった。馬鹿馬鹿しくて、愚にも付かないような妄想であったはずのものは、種々の要因によって彼の意思を超えて彼を観念の虜とさせてしまったのだ。彼は強迫観念に支配され、自分の思想がどれほど危ういものであるかを確かに実感していたはずであったのに、想念の傀儡となり、悪魔の僕となって、斧を外套の内側に掛け七百三十歩の道程を歩いていくこととなる…。


「いったい、ぼくは、やつらになんの罪があるんだい!なんのために自首に行くんだ?やつらに何をいおうってんだ?(中略)……ぼくは行かない。それにいったい何をいうんだい?人を殺したが、金をとる勇気がなく、石の下へ隠しました。とでもいうのかね?」

 ソーニャはもはや気がついている。こんな言葉は彼にとって空疎でしかないことを。彼自身がこのエゴイスティックな振る舞いを自嘲していることを。ラスコーリニコフは自分の理性ですら制御することができない分裂を抱えている。精神的な崩壊が始まっている。アイデンティティーが幾重にも重なった観念に糊塗されてもはやその存在を誇示することができなくなっているのだ。彼の心に潜んでいる純粋な動物的本性―それは彼のエゴイズムに本能が従属しているということ―は、彼に必死の抵抗を促しているが、自己を見失った彼にあって、そんな足掻きは嘲笑と自己嫌悪をもよおさせるものでしかない。ソーニャは寛大であった。彼女の慈悲全ては今、彼に注がれていた。

「だって、いっしょに苦しみに行くんですもの、いっしょに十字架を負いましょうよ!……」
……
 
 「いっしょに十字架を背負いましょう」というソーニャの声がラスコーリニコフの胸中に反響していた。その残響は彼を自白の道へと誘っていくこととなる。悪魔の声は彼を絶望へと導き、そして今ソーニャの声が彼を復活へと導いていく。ソーニャの部屋に入ったとき「太陽はいつしか西に沈み始めた。」夕日が二人を照らす…。

 「ぼくはね、ソーニャ、どうもそうしたほうが得らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したってしようがない。ただね、何がぼくのかんにさわるかといえば、ほかでもない!あの愚劣な畜生づらをした連中が、たちまちぼくをとり巻いて、目を皿のようにして、まともに人の顔をじろじろ見ながら、愚劣な質問をもちかけて、それに答弁を強いたり―うしろ指さしたりするかと思うと……それがいまいましいんだ。」

 ソーニャはただ黙ったままである。その沈黙の眼差しは裁断する者の無言の圧力などではなく、彼の全てを理会し、彼の全てをありのままに受け入れる慈愛の聖母のそれである。

 「ソーニャは無言のまま、箱の中から糸杉のと真鍮のと、二つの十字架を取り出した。そして自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやった後、その胸へ糸杉のほうをかけてやった。」

 ソーニャは糸杉の十字架を彼にかける。それは十字架の苦しみを共に受けようとする彼女の献身と愛を示している。
十字架のモチーフは、民間信仰における儀式に由来するという。古くから十字架交換の儀式は心の連帯を象徴するだけでなく、血縁なき同一性ともいうべきものを表すのだという。

 「これはつまり、ぼくが十字架の苦しみを背負うというシンボルだね、へ、へ!まるでぼくが今までに、苦しみかたがたりなかった、とでもいうようだね!糸杉のは、つまり民間に行われるものなんだね。そして真鍮のほうはリザヴェータので、それを自分で取るんだね―どれ見せてくれ!なるほど、これがあの女の胸にあったんだな……あの時?ぼくはこれと同じような十字架を二つ知ってる、銀のと、肌守りの聖像と。ぼくはそれをあの時、ばばあの胸に投げつけて来た。いっそぼくは今あれでもかけるよかったんだがなあ、まったく、あれをかけるとよかったんだ……<…>」
 
 ソーニャは糸杉の十字架、民間で行われる儀式の十字架を彼に渡した。それは彼がそれをかけることによって民衆(世界)に回帰することを強く願っていたからだ。ラスコーリニコフは世界から離れ、そして孤独の荒野を彷徨った。その苦しみは人が民衆を離れては決して生きていけない事を彼に痛切に実感させるものであった。その大地から生命の根をもぎとられてしまった彼の浮遊状態の生の空白が齎す絶望をソーニャはわかっていた。ソーニャも自らの身を滅ぼした人であったから…。だが、彼女はそれでも民衆と共に在ろうとし続けた。カペルナウーモフ家の同じ屋根の下で、主人のびっこやどもりの家族と触れあい、リザヴェータと一緒に聖書の朗読をしたりしていた。それは彼女の罪の意識を拭い去る事はできなかったかもしれないが、確かに彼女は民衆の一人として民衆と共に生きていたのだ。
 ラスコーリニコフはソーニャを同じ踏み越えた者といったが、彼女は真に踏み越えてはいない。この表現が適切さを欠くならば、ラスコーリニコフ的な踏み越えなどしていない。彼女は身を滅ぼし、自分で自分を殺した神の掟に背く離反者であった。だが、彼女の信仰の内実は神から全く隔意していない。彼女はラスコーリニコフが願い求めたような、「権力者」「新世界の神」などという立場は露程も望んでいない。彼女の踏み越えはそんな彼の権力志向に基づいているのではない。ラスコーリニコフは間違っている。彼は自分が「法を犯した」という一事でもって世間から悪人として糾弾されることに屈辱をおぼえ、また同時にそんな自分を甘受しなければならないという己の弱さ、存在に恥辱を感じていた。彼は物事の表面しか見ようとしない人間達が我慢ならなかった。しかし、彼もまた同様の誤謬に陥っている。彼もただ「踏み越えた」という一事でもってソーニャを自分と同じ立場に引きおろすが、彼と彼女では踏み越えのないように大きな懸隔があるのだ。その事に彼は気がついていない。ソーニャはその身を犠牲にしたが、彼女の生は民衆からは決して離れていなかった…
 ソーニャはラスコーリニコフの悶えに悲しみを感じていた。だからこそ彼がまた世界へ、民の下へ戻るよう願いながら、彼に糸杉の十字架を手渡した。そして自らは真鍮の、リザヴェータの十字架をかけ、リザヴェータの苦しみをその身に担おうとした。
 ラスコーリニコフはソーニャのもとを去った。大地から離れた彼がまた民衆のいるこの地へと還ってくることを願い贈られた糸杉の十字架をかけ、彼はその足で警察署へと歩く。センナヤへはいった。広場の真ん中まできて、突然彼の方寸に衝撃が起こった。それは彼の全神経を領してその全存在をとらえつくした。もはや私の言葉などはいらない。

 「彼は急にソーニャの言葉を思い出したのである『四つ辻へ行って、みんなにおじぎをして地面に接吻なさい。だって、あなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの。そして、大きな声で世間の人みんなに、<わたしは人殺しです!>とおっしゃい』この言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなとふるわせ始めた。この日ごろ、ことにこの四、五時間の、出口もないような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒しつくしたので、彼はこの新しい、充実した渾然たる感情の可能性へ飛び込んで行った。それは一種の発作のように、とつじょとして彼を襲い、彼の心の中で一つの花火をなして燃えあがり、たちまち火災のように、彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐされて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたままその場も動かず、地面へどうとうち倒れた……
 彼は広場のまん中にひざをついて、土の面に頭をかがめ、歓喜と幸福を感じながら、そのきたない土に接吻した。彼は立ちあがって、もう一度身をかがめた。」

 私達はここでラスコーリニコフが大地と、民衆と和解したのだと思う。だが実際彼の苦難は存続する。民衆との和解はまだ先にあるのだ。しかし、この大地接吻が彼にとっての復活の曙光であったことには疑いない。神から離れ、盲目のなか終わることのない果て無き道を彷徨ってきた彼の蒙は啓かれる。瞑目されたまなこが開かれたとき、その眼に映ったのは一つの幻。
 
 「途中、ある一つの幻がちらと目にうつったが、彼はべつに驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬと、予感していたのである。」

 この幻影はキリストの姿である。自首をし苦しみを受けに行くラスコーリニコフの眼に、ゴルゴタの丘を登坂するキリストの魂がリンクしたのである。今、人類の罪を引き受けて十字架に処せられるキリストの姿は流刑地へといくラスコーリニコフに重ねられている。


………

 「おいっ!!貴様っ!貴様、自分のいったことを覚えているか!貴様は、今、貴様が崇めている、敬愛しているものたちの為にも、卑屈にになるべきでないと、言明していたのだぞっ!誓っていたのだぞ!涙ながらに訴えていたのだぞ!貴様、それをもう忘れたのか!もう、翻意するのか!ええっ、どうなんだよ、おい!」」

ああ、ああ、ああもうわかっている。僕は十分すぎるほどにわかっているよ!だから僕はもうイモムシになりたいんだ。彼らのようになりたいと渇望するんだ。これは、その狼煙だよ。忌まわしい鬨の声なんだよ!

 偉大なる彼らよ!彼らは本当にひたむきであった。自らの生に一生懸命であった。鋭敏なる知能と多感なる精神を有したイモムシよ!美しき蝶よ!貴方たちの魂のひとかけらを今、僕がどんなに欲していることか、今、声高にここに訴えたい。これは一時の感情主義ではない!決して、決してそんなのじゃないんだ。どうしてそんな一時の欲情でもってこの高貴な感情の発露を説明できるであろうか。この僕の心は、神聖なる神秘的な形而上的心性は、一切のまどろみを越えてただ一心にこの願いを支えている!
  旋風のなか現れたる全能の神よ!いと高きところにありて、偉大にして善良なる神よ!僕は今、彼らの血肉となりて、あらゆる困難をも乗り越える力を得たい!彼らの存在の化身として、僕のなかに彼らを宿したい!
 これは傲慢でありましょうか!不遜に過ぎるでしょうか!ああ、神よ、どうか僕に道を指し示してください!僕を騎士的な心を抱懐する堅牢な戦士にしてください!僕はこのまま惨めな自己でいるつもりはない!何か一つでも、一回でも世のため人のために全力で生きてみたい!心から人の痛みを想像しては、寄り添うアガペーの心を持ちたい!社会を、世界を、宇宙を構成する一分子として、一粒の粒子としてこの世に生きたい!ああ、これは全くもって僕の真実。僕の内なる魂の叫び。今、目の前で助けを求める人あれば、僕は一目散に駆け付け施しをするであろう!これが独善的ヒューマニズムだと非難されるならそれでもいい。自尊心の慰みだというなら勝手にすればよい!だが、僕はそうするよ。たとえもし自分の命を代償にしてもするだろう。ただ、外道な人間は除く。

 おお、母なる聖母マザーテレサよ!あなたはどうしてあらゆる人に善良でありえたのか!ああ、僕に、今の矮小なこの僕に、あなたの如き隣人愛の心があればなあ!
 この辛い憂き世に身を沈めながらも、他者のことを想える強い人間に、彼らのような強靭な精神を方寸に刻んだ人間になりたいです。懸命に生きる、言葉ではなく実践する人間になりたいです。イモムシも石も人間も本当は変わらない。この世に生きてその存在を示している。変わらないんだ。


つまりは、つまりは、僕はまだ生きたい‼︎ただ生きるだけでない!僕の能力が正当に認められたい!金持ちになりたい!美しく、高貴であり続けたいんだっ‼︎