harustory’s diary

日々の思索、その物語

近世国文学史之概略

京極夏彦陰摩羅鬼の瑕』中、主要登場人物たる中禅寺秋彦林羅山を俎上に載せ、近世国学について言及する件があります。中古から近世の思想的変遷は幕府の思惑とも重なり興味深い分野の一つかと思います。

    一、近世の和歌受容
 
 近世の国学は所謂、因襲的な中世和歌に対する批判の勃興をその端緒とする。元禄期の歌学革新運動がこれに該当するが、その人物として代表的なものに木下長嘯子、下河辺長流、契沖、戸田茂睡、木瀬三之等がおり、彼らの働きが近世国文学の胚胎する素地となり、延いては広義の国語学、御国学びといった皇国史観へと底流するその嚆矢となっていった。
 ところで、近世に於ける歌学を含めた国学についてその眼目たるところを把握する為には、如上の因襲化された中世和歌の性質をまずは知る必要がある。中世の和歌は古今伝授によって伝承されてきた。古今伝授とは至極簡単に述べれば、『古今和歌集』の解釈を口伝や切紙等により、師から弟子へ秘説相承の形式で授受することで、これは近世に入り堂上歌壇として細川幽斎の伝統歌学精神と紐帯し主流を成すこととなるが、同時にその機運に乗じて、この頃には古今伝授による囲繞された学問の継承に随伴する和歌の形骸化や瑣末化の問題が論難されるようになっていった。
 かかる指摘の背景には、二条家を中心とする堂上歌壇により和歌が一部の文化的特権階級による恣意的な産物と化してしまっていると危惧する地下派(じげは)の主張が存している。彼等は堂上歌壇の専有物としての和歌が、それ故に主観に満ちたものに解されてしまっていると警鐘を鳴らし、そのアンチテーゼとして、古今伝授に由来する中世的権威の跋扈する伝統的歌学から離れた実証主義的見地からの研究に切磋していったのである。そしてこの文学的潮流の隆盛により近世の新しい時代精神は胎生していくこととなる。そのパラダイムシフトにあって、後述する種々の国学者達は時勢の当事者として世に出ることとなったといっても過言ではないであろう。三之は己の直観的見解に依拠し歌学(文学)を捉えることの要道を示し、長流は恣意性を排除し、用例、文献を渉猟しそこから帰納的に考察する実証的態度を奨励する。茂睡も歌を詠む精神の自由を唱える。こうした彼等の実証主義的態度(尤も三之の直観的見解の奥旨は、権威や文壇の共通認識といったようなものに囚われない、個々人の文学への自由な解釈、態度といったものを示しているのであろう。特権階級のみ享受し権威性に拘泥する秘伝思想からの脱却を訴える彼等の切実で真摯な学問的態度に敬意を表する。)ここで契沖の思想を伝える言説を引用したい。「契沖は、放浪生活の中で、真実は俗を離れたところにはなく、俗の中にこそあるという意識を明確にしていったのである。それは、何物にもとらわれず真実を客観的に追究しようとする精神であり、元禄の人間解放・復興の精神そのものであったといわねばならない」。(乾安代他著『日本古典文学史』双文社出版一九八七年)
 この契沖の思想に私は共感を覚える。私は、契沖の「俗の中にこそある」とは、文学が本来民衆から懸隔した境地からは生まれ得ないことを示唆していると読みたい。民衆に取材し民衆の風俗に触れることで紡がれるものこそが小説であり文学なのである。これは坪内逍遥が『小説神髄』に於いていみじくも指摘したことであり、殊に人情本に於いては稗史的な写実主義は小説の骨法である。
     
    二、国学の発展

 国学の大成は荷田春満とする評があるが、それは、契沖の興した実証的学問運動の基盤に春満が規範的性格を付与し体系化させたところにその所以をもつ。国学は古典の文献学的研究を一義とし、考証や校勘を重んじ客観的且つ精緻なものとして実証的に研究されることが要諦だとする春満の骨子は、近世国学者達の思潮を生み出す創始となる。その糸口として、春満の叙した『創学校啓』が幕府に献呈されたことが影響しているのは確かであろう。上の著物は先述の如く幕府に提出した奏上文であり、彼は上記作物に於いて古義を明らかにする為に古語に通暁し、そのことによって古(いにしえ)の学びに回帰していくことを希求する。こうした行動や姿勢からは、学究の徒たる彼の気概が充溢している。
 『創学校啓』について次の引用を挙げてみよう。「彼は一七八二年(享保一三)に、皇国(日本)の学問をする学校を、京都の地へ建設したいので『幸に一(いっ)傾(けい)の地(百畝ほど)を賜らば、ここに皇倭の学を開かん(原漢字)』と述べ、さらに『臣が愚衷(ぐちゅう)を憐(あわれ)んで業を倭(わ)学に創(はじ)め』と言っている。すなわち中国の儒教、インドから朝鮮半島をへて日本へ伝来した仏教などの影響こうむっていない純粋の日本学が、春満の説く倭学なのである」。(麻原美子編集委員代表『-日本文学はいかに生まれいかに読まれたか-日本の文学とことば』東京堂出版一九九八年。)右記の論述から、春満が如何に皇国の学問を修め、それを学問としての古道に於ける本義、別言すれば外来思想を排斥したところに厳然と屹立する倭学への純一な傾倒こそを信奉していたか見て取れる。
 賀茂真淵が春満に師事したのは真淵三十の時分であったが、彼は春満の薫陶を受けつつも契沖に私淑し、また後年には田安宗武に仕え、その遍歴のなかで独自の学問観を確立していくこととなった。まずは春満と同様の私見を表白した著作として『国意考』を概観する。ここで真淵は儒教、仏教を批判的に論じ復古的国粋主義の立場を表明しており、かかる点に春満の感化は看取出来よう。以下はそれについて説明した一文である。「古くわが国の人々の心は質実剛直で世の中は自然によく収まっていたが、儒学・仏教という外来の思想が入ってきてからは人々の心は狡智になり、その神皇(すべろき)の道が失われていった」(前掲書。『日本古典文学史』)。
 然るに、真淵を春満と完全に符合し総括的に論じることは出来ない。何故ならば、真淵には『万葉集』をもって、そこに神皇の道が開かれると考えているからである。真淵はあらゆる万葉歌は丈夫(ますらお)の気質を内包しており、古は全てますらおに習っているという。 ますらおの意味としては、一般に立派な男子や優れた男と説明されるが、斯様な意、そして丈夫という言葉に包含される聡明さや剛健さといった逞しさの気風に真淵は大和人としての矜持や信念をみたのではないかと考えられる。真淵はその健全な、大和魂とも形容されるべき心に日本人の古の精神を仮託させようとしたのではないか。これは真淵の過去への憧憬とも忖度出来よう。
 『古事記伝』、『玉勝間』等で著名な本居宣長の学問観は文学を歌学論、復古神道論とみることで国学を完成させようと企図するものであった。そして学問は須く認識論と結合し、故に歌学の十全な認識が求められた。そのような見地から彼は『源氏物語』に芸術上の価値を置き、そして、宣長によって人口に膾炙した「もののあわれ」論が耳目を集めることとなるのである。
 宣長は、日本が天照大野神の御本国であり、それをして世界に冠絶した国であると説いた。彼の激烈なまでの神国観は後の平田篤胤によって確立された復古神道と地続きになっている。
 国学思潮の展開として俎上に載せる代表的人物の最後として前述の平田篤胤がいるが、彼にあって国学は徹底的なまでの外来思想の排斥と相接している。国学への思慕やその大義に因をもつ斯様な排除の気運は、これまで論じてきた思想家に於いても論じてきたが、篤胤の場合は、国学の世界観である神道を擁護し補強する為に、独自の、宗教性を強く帯びた神道説を標榜する。そして、その強い独自性を帯びた彼の宗教的神道観は外来思想(儒教、仏教が主であるか、乃至はそれらのみを指している。)への猛烈な攻撃なのである。斯く宗教的盲信は、近世国学の潮流にあって篤胤に顕著なものである。つまり、皇国の学びに至純であり、外国に対してあまりに不感症であった故、彼の観念は現世風に言えば極右的なそれに比定される。
 然ればこそ、篤胤は近世国学の系譜を継ぎながらも、その思想的色彩としてあまりに宗教色が色濃く顕在するわけである。篤胤は国学者として復古神道を確立させた人物であるが、彼の熾烈極まる外来思想排斥への執心は、明治維新廃仏毀釈運動に連なっていくこととなる。