harustory’s diary

日々の思索、その物語

対話篇

  「以前、先輩はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を例に挙げ、いきなり難解な原典の訳本にあたるのは時に危険(それが婉曲的な意味であったしても)という旨を仰っていたと思いますが、それについて一寸申し上げたき事があります。

  自分はこれまで何冊か新書の哲学史や思想家の解説書を読んだのですが、これらを読んでいるとき、著者が『これがAだ』といったものを『これがAであるのか。』と、その概念を只々受け止めているだけというような感じがしました。その時に、自分は出し抜けにこう思い至ったのです。『本当にAについて考えるためにはAそのもの、それはAなる概念を表出した原作者の著書自体に触れるべきなんじゃないか』と。そうして、実際に原著の訳本を読んでみたわけですが、Aに関して殆ど理解できない自分を痛感しました。そこで、解説書のありがたみを知ったのですが、それでも解説書で得られるA像は解説書の著者のものでしかありえないのではないかという考えは残っています。

  もちろん、翻訳本にあるAの概念も、著者によるAの像であり、例えば『実存』という概念一つをとってみても、そこに神や超越者の姿を思い描き、それを前提としたキルケゴールヤスパースらと、神や超越者の姿を想定しなかったハイデガーや、その無神論的実存思想を継承したサルトルらとでは差異があるように、普遍的概念ではない事は理解しています。それであったとしても、解説書の像とは大きな差がある、そこに原作との非連続性を覚えてしまうのです。

  長くなりましたが私が質問したい事は、哲学についてのある概念や思想について解釈を得ようとする時、自分でそれが見つけられないようなら人の解釈をそのまま持ってくることを認めるべきなのかということであります。」


  「原作者の思想が出来うる限り忠実に再現されているであろう翻訳本と、それを解説、批評した評論家のそれとの間にある懸隔、及びそこから生じる解釈の一元化に対する疑義は、学問を志向する人が折に触れては考えるものだと思います。

  芸術もそうですが、誰かがその作品を鑑賞し感じた解釈は、本質的にありうべき可能性の一つとして受容されなければなりません。何故ならば、一つの思想なり芸術なりに一つの固定化された解釈が一対一で示されるならば、思想や芸術はその拡がり、多様性を失ってしまうからです。

  例えば、カフカの『変身』では、主人公グレゴール・ザムザが突然毒虫に変化してしまいますが、あの作品の主題は、近代個人主義により実存的存在である固有な存在としての人間が社会によって孤絶されてしまった喪失感を、いきなり人が巨大毒虫に変容してしまうという不条理性のアレゴリーによって示した作品であります。これはカフカ文学の通説的解釈の簡単な紹介となるでしょう。

  カフカの作品にみられるような表現主義文学に対する解釈のかかる権威的傾向性は、しかしながら、"作品そのものを味わう"という小説を読む行為の原点を忘れさせては、読者をその権威性の下に誘導せしめては作品それ自体から離れさせてしまう懸念があります。それはいうならば"物語としての文学"が消失してしまう事にも敷衍される現象です。

  哲学書も事情は変わりません。その意味において、キミの原典への拘り、そこにこそ基礎を置かんとする態度は学問的態度として純粋であります。

  そうでありながらも、哲学書は、思想的な錯綜と概念の不文律が殊に中世あたりから露呈しはじめています。それは同時に、日本語としての翻訳を能はしめない次元にまで哲学が抽象化、別言すれば形而上化されてしまったとさえ言えます。ここには、西洋の言葉と日本のそれとが、文化背景的に異質である故に顕在化された言語性質的問題もあります。また、キリスト教に由来され、キリスト教支配下で形成されていったヨーロッパ思想と、近代化の過程で形而上的な存在への認識が欠如された日本思想との乖離も存しているでしょう。

  そうした事を考慮すると、原典訳本に最初からあたるのはやはり"危険"なのです。真面目な人ほど。真面目であればあるほど、何とかそこに自分なりの意義、解釈を見出そうと腐心し、畢竟、牽強付会の陥穽におちて言ってしまいやすいのです。やや諧謔調に、また比喩的に言えば、哲学を学ばんとする者は、正にその哲学自身の手によって殺されるかもしれないのです。

よって、原典の翻訳本は、基本的にその大半は最初に手をつけない方が無難です。プラトンデカルトショーペンハウエルニーチェ後期、サルトルあたりは翻訳本から読みはじめてもよいでしょうが。


  「回答ありがとうございます。

  ところで、世に解説書が存在するということは(元をたどれば)あまりに難解なものでも自力で解釈をした人がいたということになりますが、その人達と同じ姿勢で、つまりは同じ読解のベクトルで向き合う必要はないということでしょうか?」


  「その人達を意識し、真摯赤誠なる姿勢で歴々の研究者達の解釈なりと、(それは対話する感覚であるように)読むことは肝要なことです。何故なら歴々の方々も、同じように昔の歴々の研究者達の解釈を通して、自分にとっての『パンセ』であったり、『存在と時間』であったりを見出してきたからです。評論書を原典に対する評論書とみるのではなく、一つの独立した読みものと捉えるといいかもしれませんね。」