harustory’s diary

日々の思索、その物語

Crime and Punishment

死のうと思った。それは「恥辱」に耐えられないと感じたから。

 彼が感じた恥辱がなんであるか、僕は今ここでそれを赤裸々に告白したいと思う。それが、彼の感情を解き明かす事は、そのまま僕の苦悩を、呪われし忌々しい懊悩を、解明することにもなるのだ。
 

  彼はずっとずっと踏み越えたかった。それは、世界の秩序からの踏み越え。この世の論理からの踏み越え。そして、社会の不正からの踏み越え。此岸と彼岸の境界線を越え、神の作りし世界を呪い、自らが神たる者として新しい調和的世界を、水晶宮を築こうと彼は思った。

  そのための第一歩として彼は決意した。"あいつ"を(=社会のダニ)殺害することは、彼にとって新しい世界建設の記念すべき一里塚となるべきものであったはずであったから。前途は洋々に広がり、彼には無限の可能性が溢れているはずであった。
 

 彼はダニを潰した。ダニをプチっと握りつぶした後、彼に襲い掛かってきたのは圧死され飛び散ったダニの汁。体液。それが彼の身体に付着し、こびりついた。死臭が漂う。「何故殺した!」そんな呪詛のような響きが、声なき声が、腐乱臭を嗅ぐような猛烈な吐き気となって彼を苦しめる。
 「認めないっ!認めないっ!!僕はあの害虫の存在など歯牙にもかけてやしないっ!生き返ったらもう一度殺してやるっ!何度だって何度だって、屍が腐って腐って腐りつくすまで僕はアイツを屠り続けてやるっ!」

 嘔吐させる様な亡者の気配は彼を苛立たせる。 
 「それより彼女だ。」彼はあの時思った。「どうして、どうしてあの場に居合わせた?なんでいるはずのないお前があの時間に帰ってきた?」彼は苦悶した。彼は彼女達のような善良な人間を救おうとして、そのためにこそ凶刃を振り上げたから。

 彼の第一歩は儚かった。勇壮で偉大なはずの栄光へと続く記念すべき一歩、踏み越えは光輝なる道程などではなく死の淵への滑落であった。血みどろの殺人劇は死の行進への第一歩となり、忌避すべき醜悪な現実であった。
 彼に訪れた諦観。それは際限のない虚無が十万年の十万乗も連綿と続くような無辺法界。どこへいってもあてのない完全な無の世界。絶無。彼はこのとき人類との断絶を、絶対の孤絶を確かに「感じた」。論理ではない確かな感触。生理的な感覚が彼に事の次第を絶望的に明白にさせた。
  ただ踏み越えることのできなかったという屈辱感をして彼に苦悶を与えせしめている、そう、彼は気がついているた。

  あのダニの腐臭を嗅ぎつけてしまう。そんな匂いなどするはずもないのに。予期しなかった第二の殺人。慈悲深い彼女の殺害に良心の呵責を感じてしまう。きっとこんなことなど青銅でできた人間であれば微塵も気にすることはないというのに。個の犠牲など全体のために必要不可欠だというのに。(ナポレオンやマホメッドであればきっと何の呵責すら覚えることはなかったであろう。彼らの意志の前にあっては良心の呵責などは粉塵の如く吹き飛ばされていくだけだ。)ああ、こんなことは当の昔に認識していたはずではなかったのか。
  そうして彼は、そんな自分がただの美的しらみに過ぎないと実感する。所詮自分も大多数と同じしらみでしかなかったのに己の力量を超えた願望を抱いたせいであまりに陋劣な結果を甘受することとなった彼は、その矮小で惨めな性質のせいで、「血を流す」という審美的に美しくない行為をしてしまっただけに、圧倒的多数のしらみ達よりも数段卑小な存在であった。
 彼にとってこの事実は「恥辱」以外の何ものでもない。思想自体の崇高さ、完璧さに反比例するような行為の帰結の拙劣さ、汚らわしさは、その目的が純潔な志と遠大さに縁取られているだけにとても忍従できるようなものではなかった。
 実際これは恥辱の極致であった。それは彼が「ただ殺人を犯した。法に背いた。」というその「事実」それのみによって、ただそのことだけによって「犯罪者」として社会から白眼視されるという現実が厳然と聳え立っているからである。そいつが堂々と、鹿つめらしく屹立しているからである。このしたり顔で得意げな気色をぷんぷんと臭わす世間というやつらは、社会の悪を黙認し、常に傍観者たるをやめない俗物、愚か者達の群れに過ぎないくせに、ただ「法に触れた」というその一事でもって、彼を社会のならず者だと非難し、罵り、嫌悪し、一段下の人間として扱うに違いないからである。
 「おおっ!こんなこと許されていいはずがない!」彼は憤慨する。

 「誰が、僕以外の一体誰が、この汚濁に塗れた社会を変えてやろう、そう高邁な正義感から瞋恚の炎を滾らせ、昂ぶる義憤に自らの命すら賭してこの誉れ高き殺害を実行できるであろうかっ!!一体どこの誰がこの崇高なる献身を己の使命と感じ全生命を捧げるであろうかっ!!誰がこの偉大な思想に邁進出来るであろうかっ!!いるはずがないんだ!!いるはずなんてないんだよ!!僕以外、僕を除くすべてが卑怯な臆病者で、くだらない獣に過ぎないんだからねっ!!僕がやるしかなかったんだ!僕がやるしか!それなのに世間の奴等は僕を犯罪人として刑務所送りにしようとしてやがる!絞首刑にかけて首の骨をへし折ろうとしていやがる!それが当然の報いだと訳知り顔でのさばりやがる!
 ああ!僕は、僕はこの屈辱的な現実を、恥辱極まりない己の醜態をっ!!これを、こんなものを否応なく受け入れねばならないんだっ!!何故なら僕は第一歩に耐えられなかったから!そして自殺することもできなかったから。ああ、なんていう卑劣漢だろう。ああ、なんていうシラミだろう。」

※こういった書き込みは勿論フィクションであるが、虚構であるからといってそれはただ実際でないことを意味するに過ぎない。つまり僕自身の現実を描写しようが、僕の内奥にあって表出された虚構を表現しようが、そこには如何程の差異も存在しないのだ。
 これはフィクションでこそあるが、僕のある種の感情、その断片であるという意味においては、間違いなく現実性を蔵している。