harustory’s diary

日々の思索、その物語

自分とは-実存と観念-

「ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった-意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。」

F・Mドストエフスキー地下室の手記江川卓

「鉄は熱いうちに打たれ、私の人格は少なからぬ歪曲をしていった…。」

  小学生の頃、私は軽度のいじめにあっていた。 この認識はその時分にそう自覚していたわけではなく、成長するに連れて認めざるを得ない事実として把握するに至った。「いじめ」と書くと深刻なそれを想像するかもしれない。だが実際は、内向的であったが為に周囲から軽く扱われることとなったのではないかと解釈している程度である。

  こんな述懐をしながらも、私は彼等と過ごした小学生時代を大部分は良き思い出として記憶させている。「いじめ」の言葉に凡そ包含されている悲劇性があの場に於いて私の中で醸成されていなかったからこそこんな風に語り得るのだろう。
 冷静な頭で振り返ってみたとき、あれはいじめだったのだろうと叙事的に当時の出来事を分析しているに過ぎないが、これは勿論主観であり、クラスの朋輩が実際にどういう気持ちから私と接していたかその真実の思いを知ることはもはや出来ないし、そんなことをする意味も無い。いじめの有無について叙することがここでの目的ではない。
 そうすると、「このエピソードを記した意味は何の為であろうか。何故にかかる告白を冒頭に記したのか。」、こんな風に思うかもしれない。いじめの話がもつ意味は、私が自分自身を見つめる契機となった事を提出することに存している。

  当時、感情的に友達であると認めていたとはいえ、それでも自分が嫌だと思う相手の言動に対して自分の意思を毅然と表明する勇気をもつことが出来なかった私は、その自身の弱さに少なからぬ恥辱を覚えた。小学生時代を回顧しやりきれなさを覚えるのは私自身であった。外部対象(友達や環境)ではなく、内部的な、自分自身の軟弱と道化をこそ私は今でも一等嫌悪するのである。
 ただ諾諾たる人間の如くに振舞い、諂い、争いを避けることに躍起になっていた私は、いじめやからかいに無頓着であり、そしてそれは本能的な防衛策であった。これが平和的な道だとして。思えば、私はこの時私という実存の感触がわからなくなったのかもしれない。

……
 「俺たちは親には頼れないんだからしっかりしてくれよ。」

 過去を遡及せんと試みれば、私の筆致は兄の言葉を捕らえる。ばらばらの断片と曖昧模糊とした記憶の泉から兄の声を掬い上げようとする。その声は私の脳裏で幽かな残響となり聞こえてくる。
  兄との思い出は、私が家庭や家族、殊に父親について思いを馳せる際、忽せに出来ない要素になる。

 小中学生の時分、父を恐れ続けてきた。文字通りの恐怖。畏怖の対象。

  父は暴君であった。父の怒号が家に鳴り響く度、私は足が竦み、心胆寒からせしめられていたことを追想する。毎日毎日喧嘩を繰り返す光景を、兄は憤りと落胆と恐らく軽蔑さえあったであろう、そんな感情を抱き、ある時には冷然と、またある時には憤然と見つめていた。私といえば、私自身はただただ恐怖の念で眼前の恐慌を眺めていた。父の脳裏に焼き付いては離れることのないあの胴間声に恐々とする私は極力父の逆鱗に触れぬよう、気分を逆撫でしないよう、ただ諾諾たる人間の如くに振舞い、諂い、争いを避けることに躍起になっていた。それが平和的な道だとして。
  中学生の頃、両親の喧嘩が酷くなり離婚した。父の癇癪の矛先は母だけでなく私達子供に対しても向けられていたが、両親の仲が悪くなっていくのと正比例する様に、癇癪の玉は大きく肥大しては事ある度に破裂した。
 兄達は理不尽な父の横暴に対抗する力を有していた。私といえば、中学生となってもやはりただ震えているだけであった。怒声や暴行に耐え忍ぶ方途として、私は黙るより他に術を見出せなかった。耳を塞ぎ、心を遮断して現実の恐怖からひたすら、懸命に自分を隔離させていた。それだけでもって自我を保とうとした。精神を守る為に築いた囲繞を侵害され、冷酷な現実の磁場に引き寄せられた際、父から何か意見を強要されても私は黙して語らずであった。

  その後、私は父の前でほとんど声を発すること能わなくなった。限局的な環境下に於ける失語症、そう定義するのが適当であろうか。何も意思を発しようとしないそんな私に父の怒りは益々高められていき、そうして父は一層憤怒の相を呈しては、無能者の自分、言語でもってコミュニケートしない私を非難罵倒し、乃至は日常のストレスを吐き出し続けた。原因にいつも私があったのか窺い知ることは出来ないし、それは今や詮無いことである。
 顔を合わせれば一触即発という程に険悪な父母が一つ屋根の下に住む奇怪な家は、凡そ平穏というものからは径庭し、まるで悪徳の巣の様であった。業を煮やした長兄が父に掴みかかっていく光景は家族同士の取っ組み合いの喧嘩という愁嘆場であり、斯く場面を私は忌避すべき鮮明な記憶として固着させていながらもどこか非現実的で奇異な出来事として胸底に残留している。
 顚末は同居離婚という些か奇特な家族形態の存続であった。その形式を維持したことで、両親の喧嘩は高校、大学時代に至るまで大同小異繰り返された。そのうち、いつの間にか分有されたもう1人の自分が萌出している事を、あれは高校生であろうか、私は自覚した。それは私に茫漠とした自信を強化させていくこととなった。反動形成に似た心理でもって、精一杯の自我の城を建設したゆえであろうか。その機序は不明だが、兎に角、私は高校生になってアイデンティティを確かに見出し、実存的な存在者としての自己を発見するに至った。 

 

  かつて、父は沈鬱な面持ちで私に対峙しながら告げた。
「お前をそんな風にしてしまって悪かったな。」と。
 当時、私はこれを偽善だと感じた。この言葉が強すぎるとしたら「勝手な言い分だ」と、私は痛切に思った。この瞬間の、湧出する怒りと憎しみと悲しみの混淆したぐちゃぐちゃの負の思念は今も鮮明に再現される。
 変わることのなかった日常、終わることのなかった争いは、どんなに私を苦しめ続けたであろうか。掴みあい罵りあう両親の横でどれ程私が戦々恐々しただろうか。どんなにか静寂と平穏を切望していただろうか。
 父はそんな私の願いなど知る由も無く、祈りを蹂躙し、あくまで暴君として鎮座し続けた。父が告白してきた時、以前とは違った変化をみせていてくれたなら思いも違ったのであろうが、そういう態度が一時の気まぐれに過ぎないなんてことは既にわかりすぎるほどわかっていた。事実、これまでもそんな態でもって言った後も父は相変わらず母と相対するとき、事務的な用件で話しをするとき等、往々にして喧嘩を繰り返していたからである。私の部屋のドアを開けたところの正面の壁に今は『アダムの創造』で塞いでいる穴が一つあるが、その穴は私の部屋の目の前で両親が取っ組み合いの喧嘩をしている時に、理性を失った私が殴打して穿ったものである。どうか想像してみてほしい。自分の親が自分の目の前で、つまり子供の眼の前で口喧嘩ではなく掴みあいの喧嘩をしている光景を。気位の高い母が泣きながらその爪でもって父の腕や肩をひっかき、そして服が使い物にならなくなるくらいまで取っ組み合っている姿を悲哀の眼差しで竦然と見つめるその張り裂けそうになる抑えようのない感情を。泣き叫び呪詛の言葉を吐きかけながら正にその場で容赦なく打擲され暴行されている自分の母親の姿を。その事実、その非現実感を。

  この過去の出来事が決定的な意味を有しながら今に至って私を看過させず、必要欠くべからざるものとしてこうして綴らせるのは、これまでの辛く悲しい塗炭の苦しみを吐露する事によるカタルシスではない。いじめや父や両親の問題それ自体はもう終わったことであり、今現在、私に怨恨は無い。
 書き記さねばとの情動は、小学校からの斯様な体験が、前述したように「自分自身とは何か」と考えるきっかけとなり、それが現在の私と地続きになっている事を知らせたかったからである。

 道化で軟弱な自分、意志を消失した私のがらんどうの心に「自我」が意識されはじめた、顕らかな変化が生じた高校時代。それは中学生の頃仮初めに生まれたそれとは違い、はっきりとした輪郭をもちながら私の前に、まるで以前とは異質な存在として屹立してきたのである。ここに於いて、身を守る筈であった道化は、"意識する自分"の観念の苗床になったことを明らかにした。寄る辺であり、自信の対象であったものは観念を育てる役割を担っていたに過ぎなかった。

 精神的な変調を過度に感じるようになった私はカウンセリングやロールシャッハーテストなど、自己の無意識を解き明かす精神療法等を受けるようになる。私は自分の変調を環境とは関係の瑣末で一過性のものと、曩時、結論付けていたのもあり、そんな大仰なものなど歯牙にもかけなかったが、医者や臨床心理士は私の心理機制には、その起因として両親の不仲(いじめは小学校だけであった為問題視されなかった)に基づく繰り返しの喧嘩に因る環境的影響があるという仮説をした。そもそも、精神的不調自体一過性のものだろうと考えていたのもあり、私は悲観もせず、別段深刻に考えていなかった。高校生の僕にはそんな内面的な事よりも、もっと具体的な、実際的な問題、悩みに四苦八苦していた。
 だが、精神的変調は長く、高校の終わりまで存続した。いつまでたっても治らない心の歪みに不安感を覚えていた父は、ある時診察に同行し、度々同じように私に診断してきたであろう所見をきき良心の呵責に襲われているようであった。医師によって伝えられる「息子の変調には父への恐怖がある」との見解が、父をして自責の念に駆らせていったのであろう。
  私は、この意識する自我、自分自身を観念し続ける念慮を、「これはただの思考の遊戯に過ぎない!」と結論した。何とはなしに真実思っていることと逆のことをふと考えてしまうあの心理規制に似たようなものとして認識した。実際あれは遊戯そのものだった。私もそれは認めていた。しかし、一度植え付けられた観念は、自分が事実どう感じているか、現実に自分自身がどういう存在であるのか、そういう事とは無関係に私の心を罪責感で侵食していった。
 やがて、観念はどんどん私の脳髄に浸潤しては私を拘束していった。拵えものの強迫観念は私を人形の様にしていった。そして私は観念の傀儡となった。それは哀れな自己欠落者であった。観念の入れ子は私のささやかな人間的闊達さを封印した。自縛したその縄は、茨の蔓となり私の身体から苦悶の血を飛び散らせた。私は亡者だった。私の人生は観念と微少な情緒に彩られているに過ぎなかった。

「〜だった」、この高校までの物語は受験生時代に別の物語として生まれ変わるが、それはまた次の物語を書くときまでどうか待ってほしい。