harustory’s diary

日々の思索、その物語

憧憬

僕は脆い人間。とてもとても壊れやすい。壊れればどうなるであろうか?大事にしていたおもちゃが破損し、修理不能となった子のように泣きじゃくるであろうか。その涕涙のわめきは悲鳴と屈辱の慟哭。


  然るに、この脆さはとても微妙であり、一方では堅牢なる自信と連結している。自信とは何か?もしかすると、これは「自信」などと呼べるようなものではないのかもしれない。それでも、それは幻影や欺瞞ではなく、確実に僕の中で胚胎し伸長されていったものなんだ。
   この相反する精神は、些細な揺らぎでいったりきたりする。絶対に喪失してはならないこの「自信」が崩れたとき、きっと僕は愕然とするだろう。そして欲望する。「なんとかして欠如を充たさなければならぬ」と。
  崩壊した末路としての僕の生は、惨めで恥辱に満ちたものであろう。それは耐え難く醜悪で、脆弱である。
  しかし、脆さ故に絶望した者はそれ故にこそ、実は、本来ならば惨めなものなんかではない。

  「私はこの脆さのために自殺してしまったのです。」

  そう告げられたとき、僕にはその者の呻吟を、屈辱を、失望を、悲哀を、諦念を、塗炭の苦しみを、僕のなかできちんと消化することができるはずだ。

  僕はイデアを希求し続ける。

  どんなにどんなにどんなにあがき続け、努力し続けても届かなかったものが、ずっと、ずっと、僕を苛み、嗚咽させてきた。これは、あの幻肢という現象と比することができようか?四肢が切断された後でも、あたかもそれらが存在するかのように感じられ、時に痛み、かゆみ等を感じる、あの現象。 僕にはこの生理的機序は不明だ。ただ、僕は想像する。もし、この痛みが心理的なものに由来するのなら、もはや手に入れることができないという現実が彼等をして許容できない現実となって煩悶させ続けるのではないか、と。もし、モーツァルトのような音楽家だったら。ミケランジェロのような芸術家だったら。そんな風に。