harustory’s diary

日々の思索、その物語

言葉の遊戯

  またまた内容としては陰々滅々たるもので恐縮さを禁じ得なくなってきたのですが、数多の作家達が努力と天稟とでもって築き上げてきた作品群は、苦悩こそが幸福や自らにとっての真理に近接することを教えてくれました。

  書き出すと、アンナに口述筆記させていた頃のドストエフスキーのようにとまらなくなるので区切ります。この"止まらない"、滔々と語っては法悦ささえも感じる自分の読書経験、執筆経験、何よりもそれらを包摂した人生経験を僕は誇りに思い、前置きを擱筆します。


  何もかもが嫌で嫌でどうしようもなくて、人生を悲観し世の中を呪い、憔悴し尽くしては無気力となり、気が狂いそうな時間のなかで、ただただ家中を蹌踉徘徊しては絶望的な気分でその場に崩れ落ち、頭を抱え、涙を流し、そうしながらも無機質で無慈悲な時間の悪魔的力に負けては、やがて立ち上がり、しかし何もすることが出来ず『白痴』のイッポリートのように、茫然と壁の一点だけを見ることを余儀なくされている「鮮明なる自失」の状態で、嫌らしい胸の拍動に懊悩しながら、死が何か具体的なものとして迫りくる感覚に漠たる甘美さと恐ろしさを覚えては戦々恐々となり、「なんとかしなければ」という抜き差しならない、地獄の責め苦の如き焦慮に駆り立てられ、昼過ぎ、三時頃の子供達の快活で無邪気な声が、その溌剌たる声色を増幅させながら僕を圧迫させてくること、それを己の境遇に対する憐れさなのだと認めている事実に自嘲、呪咀しながらも、やがて僕は、西日が部屋を染め上げ、次第にその色彩を夕闇へと包み込んでいく夕刻、幾何かの平静と根拠のない期待が自分を多少なりとそわそわとした心持ちにさせている奇妙さに苦笑しつつ、文机の椅子に腰を下ろし書を広げ、それでも止むことなき形容し難い不安と寂寥と倦怠に苦患し、人生を落伍していく破滅的な恐怖に矢も盾もたまらなくなり、ばたんと持っていた本を閉じては、提出期限の迫った課題が現実上の問題となって茫洋の彼方からその輪郭を現してくるのを知覚し、斯く作用が僕をして実際の目的、目標に対処しなければならないとの念を喚起させ、そうした袋小路が生み出す人間心理の結果としての力によって一心不乱、臥薪嘗胆の必死さでもって、生きていく為、今やるべきこと、やらなければならないことに僕は向かおうとするのであるが、漸次その気概も、時の経過から堆積し固着、慢性化された病的なまでの強迫観念とそれによるとらわれ、一元的思考、決め付け、自己否定、失意に負け、眼前に在る巨大な、「現実」という名の困難を正対しありのままに引き受けようとする心も減退し、結句、安逸の汚泥に浸り自堕落な自分に倒錯した快楽を見出だすことで精神的安定を図ろうとするのであるが、かかる機序が自己欺瞞であるとの絶望的認識は、僕が自分を完全なる廃人、駄目人間、淫逸者とするに敵対する勢力として陽炎のように僕と対峙し揺曳することとなり、挙げ句、僕は分裂する自己にただ煩悶し、疲弊し、どかっとベッドに滑落していくこととなり、時間がこのまま永劫止まってくれることを、一生涯眠ったままでいることを、夜が明け、忌々しい朝が更新されることがないことを、つまりは永久に漆黒の闇に埋没したままでいることを渇望しながら、遣る瀬なき苦しみという痛覚をずっとずっと甘受していこうと感じているのである。