harustory’s diary

日々の思索、その物語

彼の意識

   彼は原宿の竹下通りを歩いていた。春らしい爽やかな日差しに恵まれたこの日、竹下通りには本当にたくさんの人が通りの端から端まで,極めて狭いパーソナルの空間を必死になって確保しようとコンクリートの隙間を埋め尽くしている。足と足の間から灰色の道路が見えたと思ったら、そこはところどころにあるクレープ屋の傍で、女子校生や恋人達なりが店を半円状に囲むようにして作る幸せそうな空間だ。
 うんざりした気持ちを抱えたまま、彼はどうして自分はこんな場所に来てしまったのだろうか、と自分自身に腹を立てていた。

「くそ。こんなところにいたってみじめになるだけだ。なぜ僕は今こんなところを窮屈そうに歩いていないといけないんだ。何のために。ああ、そうか。僕はこの竹下通りを抜けた先にある会社に用があったんだっけか。そして今はその帰りだった。こんなに気分が滅入っているときに、こんな場所で馬鹿どもに混じって歩いている僕の姿はなんだかとても滑稽だな。まるで、自分が無理してこいつらに取り入っているようだ。

  それにしても、僕の両耳にきこえるこの言葉の渦は一体なんだろう。ぐるぐるぐるぐる。いくつもの交じり合った言葉が重層的に僕の聴覚を刺激している。

  この言葉達はなんだ。生きているみたいだ。実際に生きているのは、言葉そのものではなくそれが発せられる主体者であるあいつら人間だというのに。」
 彼が感じているのは"社会の意識".そのものである。彼は昔から大都市や人が多いところに行くと、その場所にいる人達が、なにかある一つの巨大な集合体となり自分に向かって対峙しているように感じられた。そのときそれぞれの人間も彼らの言葉も、自分には無関係の代物として彼の周りを十重二十重と周回しながら彼の内奥に迫りくる生き物のごとくに生成される。

  社会という概念が、それを構成する各々の人々よって成り立っている一つの符号の産物にしろ、その抽象的な社会という存在から彼は疎外されている。少なくとも彼はそう意識している。
 「なんだって僕はこんな雑音なんか気にしているんだろう。こいつらが何を言っていたって僕にはまるでどうでもいいことじゃないか。生きている?それがどうしたというのだろう。そりゃあ、いきてだっているかもしれないさ。人間が生きているんだから「言葉は生きている」といったって別におかしくもなんともないはずだからな。

  でも、人はどうして「自分が」生きていると当たり前のように実感しているのだろうか。何故自分が自己自身として、そこに自らの主体的存在者たる確固とした認識を持って確実に現れていると感覚するのだろうか。だって、僕が生きている世界の中で、僕は僕自身のことについてしか「確かに存在している」という意識を証明することができないのだから、いや、それすらもあやしいのに、僕の周りに存在している他者が、僕と同じような意識と感覚でもって同じように世界を生きているなんてわかるはずもないんだからね。ひょっとすれば、この世界に生きているのは僕一人かもしれない。それが100%の確率でありえないことなんてそれこそありえないよ。」

 俯きがちな顔を上げて人ごみの中その足を止めたのは竹下通りの真ん中、右に折れる道が若干人の流れを緩和させるセブンイレブンの前であった。この場所は、少し怖い風貌と陽気な気質で竹下デビュー組を戸惑わせる黒人の兄ちゃんたちがいつもたむろしながら客引きをしている場所である。 

  ここで彼の特徴とも言えるものを一つ紹介しておきたい。彼は本当によく街中で声をかけられるのだ。それはいい場合もあれば、勿論悪い場合もあり、最悪の時には拉致されて金銭等を奪われたこともあった。他にもホストから勧誘され、警察の職務質問にあったり、女の子から頻繁に誘われたり、酔っ払いに絡まれたり、はたまた男色の中東人から求愛を迫られたこともあった。

  今、彼は再びその特徴をまさに発揮しようとしていたのだ。そう、その黒人の兄ちゃんたちは群集でごった返す原宿のど真ん中で、一人俯きがちで人目を避けるように歩いていた彼に目をつけたのだ。
 「へい、へい、お兄さんちょっと待って。あー、いいから少し止って。」
 こう言ったときには既に黒人は彼の前に立っており、決して先に行かせまいとしながら、少し威圧的な眼で彼の眼を見つめていた。 
 「えっと、あの、すみません。僕お金持ってないし無理です。買えません。すみません。ごめんなさい。」彼は出し抜けに登場した黒人をいぶかしむ余裕もなく、若干の周章と不快さを覚えながら言下に応える。
  その言葉は外国人相手にもはっきりと伝わるよう、わかりやすく拒絶の言葉だけを並べ立てた意思表示であったが、場慣れした相手はそういう彼の言葉など聴く耳を持たない。彼は、自分がちょっとでも止まってしまい、そして相手に自分の正面に立たせてしまった時点で既に彼らのテリトリーに入ってしまったのだ。
 「いーから、いーから。みるだけね。値段、まけるからね。とりあえず裏の店、そこまできてね。」
  そういうと黒人は半ば強引に彼の腕をとり、そのまま竹下通りから右に折れた裏通りのほうへと彼を連れて行ってしまった。彼はもはや断ることもできぬままにその強靱な膂力でずるずると引きずられるようにして店へと歩度を進めた。
 店へつくと、その黒人はすぐに店内の商品を紹介し、どれでも安くするから気に入ったのを選んでよいと言った。
 「どれでもいーね。まけるからね。」
 店内に置かれた商品はそのほとんどがTシャツで、そのデザインもいわゆる「レゲエファッション」とカテゴライズされるものであったが、それらは彼にはまったく無縁のファッションであった。それでも興味を示すそぶりをまったく見せないとあらば黒人の機嫌を損ねることになるかもしれず、そうなれば今までの経験からトラブルに巻き込まれかねないと危惧した彼は、一応商品を手にとって関心を持っている振りをした。
 そのとき、突然彼の頭の中に今日一日の様々な苛立ちが雷鳴のように一挙に落ちてきた。それは人込みの中を歩いた竹下通りであったり、聞こえてくる声やそこにいる人々であったり、このいらいらする場所にいる自分自身に対してであったり、そういうものであった。

  そして今、そんな苛立ちからもうすぐ解放されそうになったとき、こうして強引に連れて来られた場所で無意味な時間を過ごしているという事実に直面した彼は、発作的な感情の高ぶりを感じたのであった。彼は半ば狂憤の態で黒人に叫んだ。

 「僕はいらない!何もいらないんだ!!金も、時間も、生きることに対する余裕もない僕から、あなたは一体何をとろうというんだ!これ以上僕にどんな負担を押し付けようとするんだ!僕は言ったはずだ。『いらない』と。はっきりと拒絶したはずだ。それなのにあなたは強引に僕をここに連れてきて、『まけるから』の一点張りで無理やりに僕からお金を毟り取ろうとしている。僕はそんなのはごめんだ!なんにも買うもんかっ!!僕はいらない。何もいらない。もう僕は帰る。引き止めないでくれ。僕はもう帰るんだ。こういう時間はうんざりなんだよっ!!
 もし、僕に無理やり買わせようとしてみろ。もし僕に暴力でも振るってみろ。僕はどんな手を使ってでも貴様を社会的に抹殺してやるからなっ!僕の兄は有名な敏腕弁護士だ。あらゆる法的力でもって貴様に社会的制裁を加えてやるからなっ!」
 話の途中から彼はますますひどく興奮し始め、もうどうにも抑えようのない気持ちと共に、「どうにでもなっちまえっ‼︎」という思いで話し終えた。

  それを聞いた黒人は、一瞬、多少面食らったような表情を見せながらもすぐに至極冷静な面持ちになって彼に語り始めた。
 「わたし、もうしわけなかったね。きみがそこまでかいたくなかったなんてしらなかったね。原宿には、あなたのように私が声をかけてこの店にきた若者たくさんいたけど、みんなそっけなくかえっていったね。きみのように素直な人、わたしはじめてみたね。お兄さん、戸惑いながらも真剣にわたしの話聞いてくれたね。みんなもっとてきとう。途中でどっかいっちゃったり、スマホでLINEや電話しながら暇つぶしについてくるような人いっぱいいたね。

  でも、お兄さん違った。最初断っていたけど、丁寧だった。わたし、それわかったね。だからお兄さんにはほんとに安くしてあげようとおもったね。だけど、それ、私のおせっかいってやつだったね。そのせいでお兄さんに負担かけてしまったね。ほんと、ごめんなさい。ついてきてくれてありがとう。」

 彼は驚いていた。様々な感情が去来した。が、最初に彼が感じたのは"驚き"であった。

  「何故この人はこんなことを言うのだろう。何故この人はあんな強引な勧誘をし、こんな風貌でもってこんなことをいうのだろう。」

  そんなふわふわとした、掴みどころのない疑問が彼に生じた。

  そして、次に彼を捉えたものは"感謝"であった。半ば強引につれてこられたとはいえ、強い口調で罵倒してしまった彼に対して、自らの非を感じ懇切丁寧に謝罪をするその黒人に、彼は感謝と悔恨の念を覚えた。そして深い感動すらも感じた。

  社会と断絶し、孤立していた自分の世界の中に、新しい何かが生まれるのを確かに彼はその時に感じた。