harustory’s diary

日々の思索、その物語

生きる

  もしかしたら、お前は今、この僕のメールを苦悶し空虚に支配されながらみているかもしれない。「何を書いているんだ、何も知らないくせに!」と、憤りすら覚えては、捨て鉢な気分で絶望的な嘲笑を浮かべながら読んでいるかもしれない。
  それでもいい。お前が今どんな精神状況にあっても僕は構わない。けれど、僕の言葉を、たとえそれをお前は戯れ言に過ぎないと感じたとしても、今一度冷静になってもう一度だけ読み、考えてみてほしいんだ。

  柏木、お前は「自殺」と言う。死は怖くないし、もう準備もできていると言う。オーバードーズし、体躯を切り刻み、街中で奇声をあげ、追跡妄想念慮、迫害妄想観念にとらわれパニック発作を呈し、発狂せんばかりだと訴える。

  ああ、それは確かにお前にとって自殺する程の苦悩なのかもしれない。阿鼻叫喚の苦しみ。地獄的で、奈落に滑落していくような恐怖と絶望かもしれない。それでも、僕はお前の気が狂いそうになる程の凄愴な日々の辛さをきくとき、お前の苦境に対して憐憫の念を抱くと同時に、ある一つの疑念というか、不可解な感じを覚えざるを得ないんだ。それはね、 「お前の苦しみは意外に大したことではないかもしれない。」 という印象。
  いや、お前の苦しみを軽くみているわけではない。言いたいことは、「苦しい苦しい!もうだめだもうだめだ!」と考えれば考える程に自分をさらなる深淵に引き摺りこんでしまう場合があるってことなんだ。所謂、負のスパイラルだ。僕はお前が今そういう状態にあるのではないかと感じている。それは自分をいたずらに、何か極めて深刻な精神的疾病の罹患者のように仕立てあげ、絶体絶命の環境にいる自分を許してしまう、いや許すべきなんだといった心理を無意識にも形成させるように思うんだ。

   僕もそんなだったんだ。そして、お前のようになってそのときはじめて、結局どんなに呻吟しながらでも動き続けるしか道はないと悟ったんだ。これは辛い。でも他にない。どうしようもない。

  お前には理解ある人達がいる。お前の抱える苦痛を理解し受容してくれる恋人がいる。支え続け、見守り続けてきてくれた家族がいる。僕は恋人や家族の行為は愛だと思うよ。愛。
  柏木、お前は自分を不必要に追い詰めては実体なき憂悶を演出してしまっている気がする。それらは影法師のようなもので、お前を苦しめる虚像に過ぎない。形なきものに惑溺されず、今ある確かな現実を生きようと決意するとき、お前の傍には愛を与えてくれる人達がいるんだ。愛は救いだよ。これは絶対の真理だ。ごく身近にある愛に委ね、お前の力とし、それを希望とするとき、暗闇は穿たれるはずだ。 まわりには光がある。お前は日だまりのなかにいる。光芒はお前に注がれている。闇に喰われることはない。その苦悩はお前を自殺させる力などありはしないんだ!!敬白。

佐伯 誠


  柏木は、友であるはずの佐伯の真摯な言葉をきいてもからっぽであった。がらんどうの心に、佐伯の訴えはただ勢いよく反発し続けるだけで、柏木を窮地からすくい上げるくもの糸にはならなかった。
  と、柏木は突如として呆然と見つめていた天井からその視線を部屋の隅においてあるスマホへと移しては、身体を捻りながら布団をはねのけ発作に駆られたかのようにあわたただしく起き上がった。僅か数メートル先にあるスマホへと向かう柏木の歩度は弱々しく、それでも内部にある種の並々ならぬ決意のようなものを蔵しており、ゆえにこそ、彼の一歩は迷いない決然たるものであった。そして、柏木の指は佐伯の携帯番号をすばやく押しはじめた。


  佐伯誠は高揚と脱力の混交する奇妙な力の作用を感じていた。その時、彼の携帯がブーブーと音をたててゆれはじめた。佐伯はびくとした。それはいきなりの音の襲来がためではない。確かな予感が彼のなかに胚胎していたためである。芽生えた予感はディスプレイに表示されるその名前をみたとき、より強固なものとなった。ディスプレイには柏木秀也とでていた。


  「やあ、久しぶり。僕がこんな風にいきなり電話してきて驚いたんじゃないか。今まで佐伯には困らせるような陰々滅々な事ばかりを送っていたのだからね。まあ、ばかりって言ってもそんなに送り付けたわけじゃないか。」向こうできこえる柏木の声色はどこか浩然としていて、何か迷い尽くしていたものが一挙に解決をみた人間のゆとりを感じさせるみたいであった。
  「佐伯、キミのメッセージ読ませてもらったよ。通話代もばかにならないからまず単刀直入に言うけれど、キミの励ましはただの理念に過ぎなかった。悪いが、僕には届かなかった。彼女がなんだっていうんだ。家族がなんだっていうんだ。光?闇?そんな抽象的な比喩じゃなく、言うならもっと具体的に言ってくれよ。そうでないと、こんなことを言うのも悪いが、僕としても目障りでさえあるんだよ。
  ところで、芥川はさ、あの遺書に於いて、『人は単一の不安のみで自殺するものではなく、種々の不安、悩みの絡まり、統合によって自死にまで至る』とのことを辞世として残したけど、正に慧眼だね。僕の今の状況も様々な現実上の苦しみが堆積し、それに加えて堪え忍んできた是迄の日月が追討ちをかけようとしているんだよ!
  人は言うよね。『そんなものはふざけたことだ。誰もが苦しみのなかでそれでもなんとか生きている。』と。『贅沢な悩みだ。そんなのは甘えだ。アフリカの子ども達をみろ。ストリートチルドレンをみろ。経済的に困窮している母子父子家庭をみろ。被災者をみろ』…云々ってさ。
  それらはまあ正論なのかもしれないね。でもさあ、何も知らない、僕という人間をこれっぽっちもわかりはしない強者の、というか上からの論理だよこれはさ。事実、僕が客観的に甘えん坊の小僧であるかどうかなんてこの場合まるで意味がないんだよ。わかるか佐伯!問題は、あくまで僕自身の内部にだけある。まあそれでも僕はこう思いたくもなるけどね。例えば震災によって悲しみと慟哭のなか、『生きていてもしかたがない』と啼声をあげる老婆がいたとするよね。僕はこの老婆の悲しみを真に理解することは不可能だ。何故なら当事者じゃないんだから。同様に、その老婆もまた僕の苦しみを真に理解することは出来ない。
  いいかい佐伯、苦しみとは本来主観的なものなんだ。本質的に、そこに多寡など存在しない。だからそもそも甘えだとかなんとか、簡単に言っちゃうような連中もいるけれど、そう安易に言えるわけがないんだよっ!
  精神医学の分野では、鬱病罹患者はストレスへの耐性が低いと言われるらしい。これは通常判断に於いて少しの不快な事象でも過敏に反応してしまうことを意味している。この場合、「客観的」には甘えと叱責さえされる程度のことなのかもしれないね。「世間の基準」ってものに照合させればね。しかし、やはりその者もまた被叱責者の苦悶を真に理解していない。鬱病者にとって、その者の内的状況にとって、その少しの不快事象は決して微少な出来事で済まされるものではないんだよっ!
  誰もが破滅を怖れる。死へと向かう苦悶に恐怖する。僕だって例外じゃないよ。死それ自体の恐れと、死をもたらす現象への恐れは峻別される。
  でもね、僕はやはり死ぬよ。ただ宿痾に抗うことなく無様に死ぬなんて全く望まない。杭が心臓を貫通するような、いかにも小説的な死でないことが僕を戦慄させる。死ぬなら美しく死にたいもんだ。
   僕は悲劇の陶酔になんか陥っているのではないからな。当然、出来るなら生きたい!生きたかったさ‼︎前向きに!快活に!僕を巣食う閉ざされた精神のその囲繞から脱却し、世界との調和を取り戻したかったよっ!もしも死、発狂が運命だとしても、そんなもの打破したいと切に願っていたさ‼︎
  …ああ、すまない、べらべらと長口舌を。さて、じゃあ通話代も気になるからそろそろ。死にゆく者も金は気にするんだよ。僕はキミにわかってほしかったんだ。それだけだ。じゃあ。」

  電話を切ろうとした時、自分でも喫驚したが、己の身体から熱いものがこみあげてくるのを柏木は実感していた。熱を帯び、体内を循環しながら痩躯に充溢しているそれは、これから自分が決行しようとするものからはよほど遠い何かである気がした。

  違和感。柏木はそう思う。確かに違和感といえば違和感であった。柏木の決意と柏木の肉体、つまり心と身体があまりにかけ離れている、そんな違和感である。
  柏木はかつて自分の腕をなんとはなしにカッターで傷つけたことがあった。傷口から、いかにも健康的な赤い血がさらさらと流れ落ちていくのをみたとき、彼は不思議な気分がした。その不思議さもやはり違和感であった。

  「赤い。僕の血はこんなにも綺麗な赤をしている。どうしてだろうか?」柏木はそんな風に感じた。そうして、自分の皮膚を摘みはじめた。弾力があった。指を離すと摘まんだところをうっすら赤い斑点として残しながら、力強い弾性でもって皮膚は元の形におさまった。

 

  「佐伯…。心と身体は別物だと思うか。」いくぶん火照った身体を感じながら柏木は尋ねた。
  「いや、僕は別物だとは思わない。そういう哲学的なことをあまり考えたりはしないが、ただ、身体と心は繋がっていると思う。補完しあっていると思う。そうやって人間は生きていると思う。」
「なるほど、物心二元論に依拠しないわけか。Cogito ergo sum…。唯心論的な見地から鑑みれば、精神こそ全てなのだがね。精神、意識、観念……。…おい、ところで肉体は何処だ⁉︎僕の器は?精神を包む箱は?」 柏木は独り言のように呟きはじめた。 「柏木、どうした⁉︎おいっ、大丈夫か⁉︎」
「いや、何でもない。すまない。なあ、血は鉄のような味がするっていうよね。僕はむかし舐めてじっくりと味わったことがあるんだけれど、まあ、間違った表現ではないかな。あれは、確かに、、いや、僕はさっきから何を言っているのだろうな。

  あれは、なんで鉄なんだ?それに赤いのは?」
  「僕は医者や生物学者じゃないからわからない。血は赤くて鉄みたいな味がするって、生体上そうなっているのだろうし、人間の知覚や味覚機能も関係しているのだろう。とにかく、そんなのも僕は考えたことがないよ。佐伯、さっきからお前は何を言おうとしているんだ?」

 

  佐伯は段々と自分が誰と話しているのかわからなくなる感覚に襲われた。しかし、柏木の話している声の調子が、はじめの頃に比べて変化していると認識した自分の判断をも疑うことはできなかった。それは以前の、懐かしい柏木のようであり、だから佐伯は自分の対峙している相手が柏木である認識に容喙をいれることはなかった。
  「柏木、僕はこの自分の身体に恭順の意を示すことにしたよ。」
  「何を言っているんだよ、さっきから。」
  「自殺するのは止めにしたってことだ。」

 

  後日、柏木からメールがきた。ほんの短いものであった。
「先日のキミからのメールを読み返した。ありがたく思った。この前の非礼を詫びる。キミは僕の大切な人だ。いつか近いうちに。柏木秀也」

ように思うんだ。
柏木、僕もそんなだったんだ。お前のようになってそのときはじめて、結局どんなに呻吟しながらでも動き続けるしか道はないと悟ったんだ。これは辛い。でも他にない。どうしようもない。
そんなとき、お前には理解ある人達がいる。お前の抱える苦痛を理解し受容してくれる恋人がいる。支え続け、見守り続けてきてくれた家族がいる。僕は恋人や家族の行為は愛だと思うよ。愛。
柏木は自分を不必要に追い詰めては実体なき憂悶を演出してしまっている気がする。それらは影法師のようなもので、お前を苦しめる虚像に過ぎない。
形なきものに惑溺されず、今ある確かな現実を生きようと決意するとき、お前の傍には愛を与えてくれる人達がいるんだ。愛は救いだよ。これは絶対の真理だ。ごく身近にある愛に委ね、お前の力とし、それを希望とするとき、暗闇は穿たれるはずだ。 まわりには光がある。お前は日だまりのなかにいる。光輝はお前を照らしている。闇に喰われることはない。その苦悩はお前を自殺させる力などありはしない。


柏木は、友であるはずの佐伯の真摯な言葉をきいてもからっぽであった。がらんどうの心に、佐伯の訴えはただ勢いよく反発し続けるだけで、柏木を窮地からすくい上げるくもの糸にはならなかった。
と、柏木は突如として呆然と見つめていた天井からその視線を部屋の隅においてある電話機へと移しては、身体を捻りながら布団をはねのけ発作に駆られたかのようにあわたただしく起き上がった。僅か数メートル先の電話機へと向かう柏木の歩度は弱々しく、それでも内部にある種の並々ならぬ決意のようなものを蔵しており、ゆえにこそ、彼の一歩は迷いない決然たるものであった。
電話機の前につくとすぐに、柏木の指は佐伯の携帯番号を連続して押しはじめた…。


佐伯が高揚と脱力の混交する奇妙な力の作用を感じていたその時、彼の携帯がブーブーと音をたててゆれはじめた。
佐伯はびくとした。それはいきなりの音の襲来がためではない。確かな予感が彼のなかには胚胎していたためである。芽生えた予感は携帯のディスプレイに表示されるその名前をみたとき、より強固なものとなった。ディスプレイには柏木秀也とでていた……。


「やあ、久しぶり。僕がこんな風にいきなり電話してきて驚いたんじゃないか。今まで佐伯にはキミを困らせるような陰々滅々な手紙ばかり送っていたのだからね。まあ、ばかりって言ってもそんなに送り付けたわけじゃないか。」受話器の向こうできこえる柏木の声色はどこか浩然としていて、何か迷い尽くしていたものが一挙に解決をみた人間のゆとりを感じさせるみたいであった。
「佐伯、キミのメッセージ読ませてもらったよ。電話代もばかにならないからまず単刀直入に言うけれど、キミの励ましはただの理念に過ぎなかった。悪いが、僕には届かなかった。彼女がなんだっていうんだ。家族がなんだっていうんだ。光?闇?そんな抽象的な比喩じゃなく、もっと具体的に言うなら言ってくれ。そうでないと、僕としても目障りでさえあるんだよ。
ところで、芥川はさ、あの遺書に於いて、人は単一の不安のみで自殺するものではなく、種々の不安、悩みの絡まり、統合によって自死にまで至るとのことを辞世として残したけど、正に慧眼だね。僕の今の状況も様々な現実上の苦しみが堆積し、それに加えて堪え忍んできた是迄の日月が追討ちをかけようとしているんだよ。
人は言うよね。『そんなものはふざけたことだ。誰もが苦しみのなかでそれでもなんとか生きている。』と。『贅沢な悩みだ。そんなのは甘えだ。アフリカの子ども達をみろ。ストリートチルドレンをみろ。経済的に困窮している母子父子家庭をみろ。被災者をみろ』…云々ってさ。
それらはまあ正論なのかもしれないね。でもさあ、何も知らない、僕という人間をこれっぽっちもわかりはしない強者の、というか上からの論理だよこれはさ。事実、僕が客観的に甘えん坊の小僧であるかどうかなんてこの場合まるで意味がないんだよ。わかるか佐伯。問題は、あくまで僕自身の内部にだけある。まあそれでも僕はこう思いたくもなるけどね。例えば震災によって悲しみと慟哭のなか、『生きていてもしかたがない』と啼声をあげる老婆がいたとするよね。僕はこの老婆の悲しみを真に理解することは不可能だ。何故なら当事者じゃないんだから。同様に、その老婆もまた僕の苦しみを真に理解することは出来ない。
いいかい佐伯、苦しみとは主観的なものなんだ。本来そこに多寡など存在しない。だからそもそも甘えだとかなんとか、簡単に言っちゃうような連中もいるけれど、そう安易に言えるわけがないのさ。
精神医学の分野では、鬱病罹患者はストレスへの耐性が低いと言われるらしい。これは通常判断に於いて少しの不快な事象でも過敏に反応してしまうことを意味している。この場合、「客観的」には甘えと叱責さえされる程度のことかもしれないね。世間の基準ってものに照合させればね。しかし、やはりその者もまた被叱責者の苦悶を真に理解していない。鬱病者にとって、その者の内的状況にとって、その少しの不快事象は決して微少な出来事で済まされるものではないんだ。
誰もが破滅を怖れる。死へと向かう苦悶に恐怖する。僕だって例外じゃないよ。死それ自体の恐れと、死をもたらす現象への恐れは峻別される。
でもね、僕はやはり死ぬよ。ただ宿痾に抗うことなく無様に死ぬなんて全く望まない。杭が心臓を貫通するような死でないことが僕を戦慄させる。死ぬなら美しく死にたいんだ。
僕は悲劇の陶酔に陥っているのではない。当然、出来るなら生きたい。生きたかったさ。前向きに。快活に。僕を巣食う閉ざされた精神のその囲繞から脱却し、世界との調和を取り戻したかった。もしも死、発狂が運命だとしても、そんなもの打破したいと切に願っていたよ。
ああ、すまない。べらべらと長口舌を。さて、じゃあ電話代も気になるからそろそろ。死にゆく者も金は気にするんだよ。僕はキミにわかってほしかったんだ。それだけだ。じゃあ。」
話しながら、柏木は自分でも喫驚したが、己の身体から熱いものがこみあげてくるのを実感していた。熱を帯び、体内を循環しながら痩躯に充いつしているそれは、これから自分が決行しようとするものからよほど遠い何かである気がした。違和感、柏木はそう思う。確かに違和感といえば違和感であった。柏木の決意と柏木の肉体、つまり心と身体があまりにかけ離れている、そんな違和感である。
柏木はかつて自分の腕をなんとはなしにカッターで深く傷つけたことがあった。傷口から、いかにも健康的な赤い血がさらさらと流れ落ちていくのをみたとき、彼は不思議な気分がした。その不思議さもやはり違和感であった。「赤い?僕の血はこんなにも綺麗な赤をしている。どうしてだろうか?」柏木はそんな風に感じた。そして、自分の皮膚を摘みはじめた。弾力があった。指を離すと摘まんだところをうっすら赤い斑点として残しながら、力強い弾性でもって皮膚は元の形におさまっていた。
「佐伯…。心と身体は別物だと思うか。」
「僕は別物だとは思わない。そういう哲学的なことをあまり考えたりはしないが、ただ、身体と心は繋がっていると思う。補完しあっていると思う。そうやって人間は生きていると思う。」
物心二元論に依拠しないわけか。なるほど…。唯心論的な見地から鑑みれば、精神こそ全てなのだがね。精神、意識、観念……。…ところで、肉体は何処だ。僕の器は、精神を包む箱は?」 柏木は独り言のように呟きはじめた。 「柏木、どうした!おいっ、大丈夫かっ!」
「いや、何でもないよ。すまない。ねえ、血は鉄のような味がするっていうよね。僕は舐めてじっくりと味わったことがあるんだけれど、まあ、間違った表現ではないかな。あれは、いや、僕はさっきから何を言っているのだろうな。あれは、なんで鉄なんだい?それに赤いのは?」
「僕は医者や生物学者じゃないからわからないよ。血は赤くて鉄みたいな味がするって、生体機能上決められているだし、そんなのも僕は考えたことがないよ。」
佐伯は段々と自分が誰と話しているのかわからなくなる感覚に襲われた。しかし、柏木の話している声の調子が、はじめの頃に比べて変化していると認識した自分の判断をも疑うことはできなかった。
「柏木、僕はこの自分の身体に恭順の意を示すことにしたよ。」
「何を言っているんだよ、さっきから。」
「自殺するのは止めにしたってことだ。」

  後日、柏木から手紙がきた。ほんの短いものであった。

「先日のキミからの手紙読み返した。ありがたく思った。この前の非礼を詫びるよ。やはりキミは僕の大切な人だった。いつか近いうちに。柏木秀也」