harustory’s diary

日々の思索、その物語

賽は投げられた

  「要するに私はうまい工合に、芸術という仮面を被って、愚かな弱い自分をごまかしていたのだ。哲学概論に一日かそこら頭をつっこんだり、まとまりもしない評論を読んでは、むやみに感激して赤線を引きまわしたり、トルストイが何といった、ベートーヴェンが何といったなど、片言ばかり書き集めて、あやしげなる芸術の仮面をつくりあげて、それで醜い自分の顔をかくして、父にはむかったり、友を嗤笑したり、ああ腐った社会だのと悲憤したのだ」
(『新版 神経衰弱と強迫観念の根治法‐森田療法を理解する必読の原点‐』森田正馬 白揚社2008,10)


  これまで僕は文学者や哲学者の高遠な思想に共鳴し、その共感した感動の高ぶりを美辞麗句でもって自分なりに形容してきた。それは僕にとって確かな誇りであり、また支えであるはずだった。

  しかし、今になって思うと、あの時分、そうした行為は表層だけを穿つ皮相な言辞に過ぎなかったようにも感じる。心底から彼等の思想、芸術を己の血肉としてその身に刻み込むような、どこか法悦的な体験ではなかった、と。

  その理由は明白である。僕が苦難を引き受ける「覚悟」を持っていなかったからだ。彼等がその生涯に於いて苦しみの果てに、乃至は苦しみの正にその渦中の中で全霊をもって書き上げたであろう作品群は、"紡ぎ手の言葉とその人生とが合一"している。言葉を決して遊戯にはしていない。一つ一つの語、描写は彼等自身の魂であり、全人格であり、そして人生であるのだ。そして、繰り返すが、それらは作者の艱難辛苦から創出された賜物であるのだ。

  故に、作品上に表出される苦悩は真に苦悩の内実を穿っており、孤独は真に孤独の内実を包摂している。