harustory’s diary

日々の思索、その物語

イエス・キリストと神

私は"人間"イエス・キリストに共感するのであろう。苦難を一身に引き受けて献身と伝道に身を窶したイエス像には苦悩する人間イエスの偉大さ(それは苦悩する人間の偉大さ)が現出している。
 


  神は厳格な父。神は裁く者。それは無慈悲で冷酷なる裁定者。アブラハムのイサク奉献。神のヨブへの試み。最後の審判

神は常に"試みる者"であった。神に対して疑問を抱くことは神の寵愛を受けんと欲するものであるならばまったくもって許されなかった。私達人間は、神が全善であり、万物の守護者であることを只々信じ、神の導かんとする世界に完全なる忠誠を誓えばよい。道徳悪も自然悪も全て神の壮大な計画の範疇であり、そこに神の世界の真偽を説くことは児戯に類する無知蒙昧たる愚考である。ああ、それは真理なりや。
 

  神が本当に全知全能であるならば、何故に人間の真意など試みる必要があるのであろうか。神が完全であり、世界が神による調和と秩序によって形作られているならば、何故に神は不完全な世界を現出させつづけているのであろうか。

  私達人間が神の意思を問うことは愚かだと歴史は高らかに宣言してきた。何故ならば神の思惑は人間には測り知ることができないから、と。では「神の思惑」とは一体なんであろうか。幾多生成消失していく歴史の悲劇を神が黙認し、そして、それは神の計画の内―つまり思惑―だとしても、そこまでの苦しみと絶望を人間に与えてまで、人間にそこまでの対価を払うことを強いてまで神が考えていることとは一体何なのであろうか。それは人間の死屍累々たる嘆きの山を踏み越えるに値する崇高なる計画なのであろうか。神が真に万物の霊たるべき絶対者ならば、神は人間の信仰の証などを必要とするであろうか。善良なるヨブはどうして神によって地獄の苦汁を嘗めなければならなかったのか。彼の証など神は渇望していたのであろうか。彼のその赤誠なる信仰こそが神の不完全さを露呈してはいないであろうか。

  人間の内実を知ることができない神だからこそ堅固な信仰の形を課し、それに背く者に罰を与える。つまり、神の理に適った、神の思惑を忖度した証という信仰の至純性、その瑕疵無き整合こそが、裏を返せば人間精神の根源を理解する能わない神の限界を示してはいないか。

  アブラハムもヨブも真に神を愛していた。しかし神は彼らの内実に、その深愛に盲目であった。そこに不幸があった。そこに不条理が生まれた。神は認めるべきであったのだ。己とて決して調和と光輝に満ちた全能者ではなかったことを。
 

  イエス・キリスト。彼は不完全たる人間の内実を知り、それゆえにこそ人間を愛そうとする。その姿は血の通った、顔の在る神の似姿。
  「おお、私のような人間であっても神は、キリスト様は許してくださる!」。

 イエス・キリストは人と直接触れ合っていくうちに人間という生き物がどのような存在なのかを知るようになった。
 人とはあまりに不完全な生き物である。我欲に満ちた存在である。そんな人間の蔓延る世界に不幸や悲しみが降り注がないはずはない。人間は己の快楽のために人を貶めるのだから。

  だが、それだけでない。人はパンのみで生きているわけではない。人間は他の生命を、そして人間自身をも蹂躙するだけでなく、他者の為に身を捧げ、万物の為に献身する魂の高貴さが備わっている。エスは伝道の旅でそれに気がついた。だからこそ彼は人を愛した。罪人を愛した。傲慢と私欲に憤りながらも、善なる存在として人間を見続けた。

  

  私にとって神とはイエス・キリストの如き存在である。