harustory’s diary

日々の思索、その物語

知らない

平田教授の声が響き渡る大教室の中、彼は、ぼんやりとしながら、携帯のボタンを押し、出てくる予測変換の言葉をみていた。
 多くの学生達が十人十色の様をみせている。あるものはスマホを。あるものは後部座席で談笑にふけ、また別のものは迫る「公務員試験」 の為に内職をしている。教室の端を眺めてみる。その一隅では、成仏出来ない首無しの幽鬼が現世に突如、大挙としておとないを告げにきた如く、誰もが首をしなだらせては見事なまで綺麗に寝ている。「成程これは合理的だぞ。どれ、僕も午後の飲み会に備えて一眠り、惰眠をむさぼるといきましょうか。」。最後の一瞥を教壇にくれようと眺めると、前方彼方の取り巻き連が物識り顔で鹿爪らしく教授先生様の御託宣を一言一句たり漏らすまいとノート作成に余念なき様子である。 
〈成程、これこそが大学という英知の場か。ここにおいて、ニーチェはその思想の全貌を表し、アウグスティヌスは全てを告白し、ドストエフスキーの神義論は解決をみるのか。成程成程。〉 
「イギリス功利主義や社会契約論等に基づいた現代的自由論解釈については、思想家ですとベンサム、ミル、ルソー、バークリなどをこの講義では取り上げます。」平田教授の講義が熱を帯びる。
 「ちなみにデカルトですが、彼はコギトを方法的懐疑によって導き出し、それを知識の源泉としました。しかし、精神を身体と分離させ世界と隔離されたものとみなしたところに彼の理論の問題があります。コギトとは『疑っているこの私』、つまり私自身の思惟を意味します。有名な『われ思うゆえにわれあり』というやつですね。
 次にロックですが、彼は経験に知識の源泉を求めました。経験が観念となり、それを組み合わせて思惟が獲得されると彼は考えたのです。そして経験される事物には一次性質と二次性質があり、事物そのものに属する一次性質にロックは知識の絶対性を付与しました。しかしロックのこの考えはその後のバークリなどにより事物は分類できないものとして批判されるに至ります。」
退屈極まりない授業。彼は既に教授が何を言っているのかさっぱりわからなかった。わかろうとしなかったのである。

 「えー、ここでデカルトスピノザライプニッツの自然観の違いを把握することは重要です。
 デカルトは精神の属性を『思惟』、物体、身体の属性を『延長』とに分類し、延長としての物質的事物の総体として自然全体をくまなく延長と捉えました。つまり、デカルトにとって自然はただの物質に過ぎずそれは一つの機械でしかないのです。これが彼の機械論的自然観といわれるものです。スピノザは自然のうちに神を認める『神即自然』の汎神論的自然観を確立しました。神である自然の絶対無限の力能を自己の本質としてのコナトゥスを通して表現することによって、人間を含めた万物の自己保存と活動の関係を説明したのです。ライプニッツは全存在が各々のモナドの力によって存在しつつ、その表現作用の段階によって階層的秩序を形成するという階層的自然観を確立させました。」
彼は、いい加減に教室を出て、本屋にでも行こうとした。堪らない。無意味だ。そんな想念が彼を駆り立てていた。
 「えー、次に先週の講義で生徒諸君から質問があったカントの認識論の特徴と意義に関して説明します。カント認識論の特徴としては、所謂『コペルニクス的転回』が挙げられます。これは従来の、認識が対象に従うという発想から、対象が認識に従う、とした彼独自の発想であります。カントは感性と悟性という認識における二つの幹を設定し、感性による直観と悟性による思惟によって認識が可能になると述べます。感性には空間、時間の形式が、悟性にはカテゴリーが備わり、この二つのものによって対象は現象として現われるのです。ここには認識の外側に在る「物自体」が前提されており、この「現象」と「物自体」という区別に認識の外に在る形而上的な問題を提起させたところに彼の認識論の意義があるといえます。」
うんざりしながら、彼はノートや筆箱をバッグにつっこむ。すると、前方に位置取っていたあの取り巻き連が平田教授を満足させようと質問を投げ掛ける。
 「先生、近代的自然観及び人間観は如何なる事態を齎し、そしてその事態を哲学者たちはどのようにして乗り越えようとしたのでしょうか?」
〈知るもんか!〉彼はいらいらしながら思った。
曰く「ではお答えしましょう。近代の自然観は自己保存、これはコナトゥスのことで  
すね、それを絶対視するために全体主義に陥ってしまいます。これを乗り越えるためには、対象性の倫理から非対称の倫理へと移行し『コナトゥスの彼方へ』脱出する必要があると例えばレヴィナスなどは言っております。さらにネスは自然と文明の宥和、自然と人間及び人間と人間の支配なき関係というユートピアへの希求によって近代的自然観を乗り越えようとしました。」
取り巻き連は充実した気色を滲ませながら、莞爾と笑い頷いては御礼を言っていた。
〈馬鹿馬鹿しいっ!!教授先生達はデカルトやらカントやらコナトゥスやらがなきゃならないんだっ!!そうしなきゃ自分達のパンがなくなるからな!彼等は自分の『研究』を、殊更に深刻ぶって、何かまるでとてつもない大事業を成し遂げた者が演説するかの様に語るんだ。語り尽すんだ。そうして「論文」なるもので衆目を幻惑している。くだらない!ああ、くだらない!なにもかもがくだらないんだっ!!〉 

大学入試国語の文章の滋味を知る肝要さ

ニーズに応える事が専門職たる証である。教師を一般化する勿れ。僕は自身をプロだと思っている。

その自負の下、「入試現代文はどうしたらできるようになるか」という究極命題に答えるならば、それは"文章を広義的意味において楽しめるか否か"に解は収斂されるはずだ。

先日、駿台版東大25ヶ年現代文は、それ自体一つの現代文参考書であるかの如き名文であり、立ち読みしてでも全て読むことを薦める旨の投稿をしたが、駿台は予備校でありながら、そういう本質的な部分を一義に考えている点で非常に共感がもてる。皮肉なことに、その追求が、駿台文庫の"傾向性"として学参レベルを超えた記述に著者を駆り立てさせ、結句、限られた時間内で合格する合目的的効率性から逸脱する事になるのだが。(つまり、駿台文庫の学参は良くも悪くも学術書のカテゴリーに近接性があるのだ。)

また、駿台が何故かかる本質の追求を理念とするかだが、駿台が難関国公立大学合格の為の学力養成を第一としている所以であろう。あれだけ記述式の模試が多く、冠模試では頑ななまでに早慶を実施しないのは、「求められる記述、論述式への適切な解答こそが入試という次元における学力の意味するところである」という上述の理念の如実な反映であろう。


話が駿台に傾斜したが、畢竟するに、現代文が出来るものは文章を楽しんでいる。換言すれば、文章と出題者との間を中間子のように揺曳しながら、自らをも主体的な参加者(実体)として確かにダイアローグしている。それが、現代文が得意な人間である。そこには、肉体的疲労はあろうとも精神的苦痛は生じない。設問に応答する思考すら、その熟考における必然的な結果としての苦痛すら、広義的には楽しみに還元されるからである。冒頭に"広義的な"と修飾語を付した謂はその為である。

従って、現代文をする際にどうしても苦痛を覚えてしまうものは、その苦痛の原因が何に由来しているかを真摯に、客観視して見極め、その苦痛の因子を除去する必要がある。これは西洋医学の外科手術だ。状況を多角的に分析し、その上で原因を診断し、そしてその病巣をえぐり取る。

現代文が苦手な者は、自らが医者になり、自らがまた患者になる必要がある。このアンビバレンツの先にしか「楽しむ」という健康なあり様は存在しない。

夏目漱石『明暗』

夏目漱石未完の大作『明暗』について。
 

   この作品、主人公は津田という名である。そして津田の女房の名はお延。僕はこのお延の境涯に最も共鳴する部分があった。同時にお延にこそより漱石的主題が色濃く現れているように感じられる。その主題とは「近代的自我」の問題である。
 ここで近代的自我に関してまず一言しておきたい。近代以前、日本は共同体的な繋がりのなかで生きていた。しかし、時代が移り、明治へと元号が変わったとき、その共同体的世界体系は大転覆を起こした。人間は「個と個」という分裂した孤独的な実存を迫られた。その不安する意識を簡単に「近代的自我」と提起してよいと思う。
 このような個我(=個人の自我)の問題を近代精神の暗部として透徹しながら見つめつつ、悲壮なまでに追及していった作家こそが夏目漱石その人であった。本稿『明暗』含め、『行人』や『こころ』等は、かかる問題意識の下に著述された代表的な作品である。
 
 以上のことを踏まえ、それでは作品そのものをみていきたい。『明暗』は、津田とお延の不安定な夫婦関係を通じて自我とエゴイズムの密接な連関を示している。<津田は我執のままに、己の憧憬たる清子という女性を求め伊豆へと赴くなかで最終的に「則天去私」の理想的境地を見出す。>研究者の作物にはこう評しているものが散見される。この妥当性に関しここで言及することはしないが、人口に膾炙した「則天去私」のテーゼがこの作品の色彩として支配的であると僕自身は考えない。
 『明暗』はこれまで、ともすれば主人公のみが担ってきた自我とエゴイズムの意識を各々の登場人物それぞれが胚胎している。それはさながら、肥大化された近代的自我の一大交響楽のような調べであり、このポリフォニックな響きこそが『明暗』の最大の特徴でもある。津田、お延、小林、お菊…、いずれの人物も自らの心の淵源に孤立した自我像を抱えそして懊悩している。これは漱石の人間観察の鋭さに驚嘆した芥川龍之介正宗白鳥の評からも窺える。それでも『明暗』を近代文学史における自我の問題として捉えながら位置づけるとき、その特質が明瞭に表現されている人物はお延なのである。だからこそ、僕はこの女性に惹かれたのだろう。
 
 お延は津田が自分を愛していないのではないかという疑念に駆られる。それは夫の書斎にあった妙な手紙や小林の意味深な言葉によって昂進されるのだが、この疑心暗鬼する意識の流れは近代実存主義の負の実像を露呈させている。つまり、漱石は自意識の揺動するお延の姿を細叙することにより共同体的な心性を喪失してしまった近代社会とその社会が齎した近代的自我意識が抱える苦悩の全貌を現出させたのである。『岩波講座-文学』所収論文に於いて磯貝英夫はこう述べている。「この『明暗』の世界は、突出する個と個が妥協点をさぐる、西欧ふうの近代的個我の世界と言ってさしつかえないものである。」彼はここで「西欧ふう」と形容するが、なるほど正鵠を射た指摘と言えるかもしれない。西欧の近代的自我とは絶対的価値基準たる神の観念が揺らぎをみせた時代の人間が生きる実存的生そのものであるが、このことは国家や村落共同体に帰属しながら自己を見出していたこれまでの日本人の意識が地すべりをみせた近代、より正確をきせば日清戦争以後の日本とその基底層に於いて径庭しないものと言えるからである。
 
 明治近代化の過程で様々な作家が自我の問題を扱ってきた。しかし漱石以前の近代文学は自我を国家・社会との非分離な関係性から叙述するものであった。その一方で漱石の作品は徹底した「個」の思想であり、共同体的基盤から懸隔した実存主義的文学なのである。『行人』の一郎は妻の愛をどうしても信じることができない。彼は自己のみの世界で孤絶し懊悩しながら「神は自己」であり「僕は絶対」であると考える。彼の思想は漱石の果て無き苦悶の声であり、同時に後期漱石文学全体の光源である。そしてお延もまた一郎の情念を継承する存在なのである。

ベートーヴェンの生涯

 この苦患のはてに何が在るであろうか。知る由も無い。だが、この苦しみが、最後、人の為になれたらと願う。私は、私の苦しみは、それ故に生まれてきたような気がする。

 
 「人生は地獄よりも地獄的である」

これは芥川龍之介侏儒の言葉』の有名な一節である。「地獄的か」そう自嘲したくなる。この生にどんな意味があるのか私にはわからない。これが地獄的というやつならば、私は芥川を卓見に思う。
 それでも、私は私自身の言葉に従いたい。苦しみをただの苦しみの為にのみしたくない。
 かつて、長兄から「苦悩というのはベートーヴェンの様な生涯を言うのだ。」と言われたことがある。高校生の頃だった。当時から私は強迫念慮に苦しんでいたから、その憂苦を兄に吐き出していたのであろうか。如何なる状況下で発せられたものか今は忘却された。
 ベートーヴェンは知人に宛てた手紙のなかで表白している。
 
 「人間はまだ何か善行をすることができる限りは自ら進んで人生から去ってはならぬ、という言葉をどこかで読んでいなかったら、ぼくはもうとっくにこの世にはいなかったであろう-もちろん自分自身の手によって」
 
 そして、自らのノートには次のように書き記している。

 「服従すること、おまえの運命にどこまでも服従すること。おまえはもはや自分のために存在するということはできないのだ。単に他人のためにしか存在できないのだ。おまえにとっては、おまえの芸術の中にしかもはや幸福はないのだ。おお、神さま、自分に打ち勝つ力を私にお与え下さい!」

 なんという悲壮な決意であろうか!須く偉大な芸術家にはこのような気質と覚悟が備わっていなければならぬと私は考えており、そしてそれは実際に生きた彼等の歩みの中で裏付けられている。ロマン・ロランは語る。

 「思想あるいは力によって勝った人々を、私は英雄とは呼ばない。心によって偉大であった人々だけを、私は英雄と呼ぶのである」と。

 私は苦しい。くるしい。クルシイ…。ああ、生きることはなんと辛いことであろうか。だが、この苦しみだけが私にきこえさせる。この世界の片隅で慟哭する孤独な魂の叫びの数々を。寂寥を。呻吟を。
 この手を伸ばそう。そっと触れるように優しく。それが私の生きる意味とならんことを祈る。

大学入試現代文の学力向上にむけて

前垢のDM引用です。


それだけなんですね。ひどいな

あ、それは事実です!受からないです。受かっていたら東進、河合、駿台代ゼミetc、合格者で溢れてしまっていることになります。


その時期によって何を勉強すべきかは個々人の学力状況により異なり一般化は難しい、というありきたりですが至当である事を前提に。


現代文の勉強としては、「これはつまりどういう事を言っているのであろう?」という"意識"を常にもちながら眼前の文章一つ一つを文字通り精確(正確ではないです。"正しく確かに"読むとはどういう事かというと、その内実は"精密で確実に"読む事だからです。)に読解していく事です。


それを訓練するためには、「これはどういう事を言っているのか説明せよ。」と記述させる東大、京大をはじめとした国公立大用を意識した問題集(『得点奪取現代文-記述・論述対策-』や『記述編現代文のトレーニング』など。)を私大志望者でもやってみる事です。

記述に主眼を置いた参考書なわけですから、上述した「これはつまりどういう事を言っているのであろう?」の説明、選択式では見過ごされてしまう抽象的、乃至は比喩的表現等が正に詳細な解説対象となるわけであり、その意味において非常に有効です。

同様の箇所が設問になっていても、選択式の問題集の場合正答選択肢とそうでないものの"差異"に解説の力点を置かざるを得ないため、肝心な傍線部の表現自体の、また、それを言い換えているはずの正答選択文の「これはつまりどういう事を言っているのであろう?」が詳細に簡明に解説されない場合が多いわけです。

かかる次第で、現代文"の勉強の"本質は記述、論述にあり、という事を踏まえ、記述、論述式の問題集に果敢にチャレンジするのがよいかと思います。

ただし、それら問題集の難易度は極めて高いです。記述系のそれは東大京大の問題を範とし、それは必然的にそこを視野に入れた作りになっているからです。(だから「極めて」と表現しました。)

故に、"決して時間をかけすぎない事"(一冊一ヶ月を上限と設定し、超過したら途中でもやめる。)です。難しいからこそ時間がかかるのですが、その難解さに"はまってしまったら"それは目的と手段の倒錯を生じせしめてしまいます。

以上が現代文のこの時期の勉強法の一つです。


古文は読解の核となる助動詞、助詞、敬語法がまだある程度自分のものになっていなければ、すぐに終えて、出来るだけ早く長文演習ができる段階に持っていってください。そうしないと、語学の学習というのは"飽きる"のです。飽きる事は苦痛であり、苦痛である事は避けるべき事であり、避けるべき事は忘れてしまいたい事という脳の自己防衛規制が働いてしまうまえに。


漢文は、学研のマンガのやつ「ヤマのヤマ」「即答法」とまずはさらっと読み通して、薄い演習本やセンターの問題などをやっていけば合格ラインの点数はとれるはずです。書き下し文を読んで意味が理解できなければ文語文の力が不足しているので『近代文語文演習』や早大文化構想の過去問なりをやるとかなりの力がつきます。

漢文は模試の平均などをみるとわかりますが、世間の「漢文は簡単」"幻想"と相違し、実に出来ていないのが実際です。漢文は文語文のある程度の力(これは古文の力をなわけですが。)を前提とした時、はじめて「習得しやすい科目」となるのです。漢字や言葉に対する語彙力、語感力も問われます。これらは一朝一夕にはみにつきません。(故に「合格ラインの点数は」と書いた次第です。)

それ故に、理想はスラスラ正確に読めることですが、現代文のときとは相違し、その理想に拘泥しないようにして下さい。(時間対効果を考えるのも受験勉強。)

父と子

わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである」
        芥川龍之介侏儒の言葉


「俺たちは親には頼れないんだからしっかりしてくれよ。」

 過去を遡及し加工して提示せんと試みれば、私の筆致は兄の言葉を捕らえる。ばらばらの断片と曖昧模糊とした記憶の泉から兄の声を掬い上げようとする。その声は私の脳裏で幽かな残響となり聞こえてくる。兄との思い出は私が家庭や家族、殊父親について思いを馳せる忽せに出来ない要素になる。
「ああ、あの時分、お前は泣いてばかりいたな。俺達はさんざん我が家の親の愚かなさまをみてきたな。」
「それでも僕にあるのは憎しみや怒りではなくて、恐怖だったんだよ。今、僕は愛しているよ!家族を愛している。豪放磊落で暴君だった父を、そして時にヒステリックだった母を心から愛しているよ。」
「そうだな。だからもう、いい加減変わるときだ。俺達が生きてこられたのは、それでも家族の庇護があったからだ。両親が、家族がいたからだ。それは、それは厳然たる、まごうことなき事実なんだ……。」
 「そんな父や母、家族の為にも俺たちは生あるかぎり生きつづけなければならないんだ。お前にこれから何が待ち受けようともな。」
 「…ああわかっているよ兄さん。」

……
小学生の頃から、ずっと私は父を恐れ続けてきた。それは文字通りの恐怖。畏怖の対象。暴君。父の怒号が家に鳴り響く度、私は足が竦み、心胆寒からせしめられていたことを追想する。毎日毎日喧嘩を繰り返す光景を、兄は憤りと落胆と恐らく軽蔑さえあったであろう、そんな感情を抱き、ある時には冷然とまたある時には凄然と見つめていた。そして私といえば、私自身はただただ恐怖の念で眼前の恐慌を眺めていた。父の脳裏に焼き付いては離れることのないあの胴間声に恐々とする私は極力父の逆鱗に触れぬよう、気分を逆撫でしないよう、ただ諾諾たる人間の如くに振舞い、諂い、争いを避けることに躍起になっていた。それが平和的な道だとして。そして私は本当の私を喪失した…。
中学生の頃、両親の喧嘩が酷くなり離婚した。父の癇癪の矛先は母だけでなく私達子供に対しても向けられていたが、両親の仲が悪くなっていくにつれそれと正比例する様に、癇癪の玉は大きく肥大しては事ある度に破裂した。
 兄達は理不尽な父の横暴に対抗する力を有していた。私といえば、中学生となってもやはりただ震えているだけであった。怒声や暴行に耐え忍ぶ方途として、私は黙るより他に術を見出せなかった。耳を塞ぎ、心を遮断して現実の恐怖からひたすら、懸命に自分を隔離させていた。それだけでもって自我を保とうとした。精神を守る為に築いた囲繞を侵害され、冷酷な現実の磁場に引き寄せられた際、父から何か意見を強要されても私は黙して語らずであった。それは父に何か言うことがあまりにも怖くていつも黙ったままでいた意味に過ぎない。その後、私は父の前でほとんど声を発すること能わなくなった。限局的な環境下に於ける失語症、そう定義するのが適当であろうか。何も意思を発しようとしないそんな私に父の怒りは益々高められていき、そうして父は一層憤怒の相を呈しては、無能者の自分、言語でもってコミュニケートしない私を非難罵倒し、乃至は日常のストレスを吐き出し続けた。原因にいつも私があったのか窺い知ることは出来ないし、それは今や詮無いことである。
 顔を合わせれば一触即発という程に険悪な父母が一つ屋根の下に住む奇怪な家は、凡そ平穏というものからは径庭し、まるで悪徳の巣の様であった。業を煮やした長兄が父に掴みかかっていく光景は家族同士の取っ組み合いの喧嘩という愁嘆場であり、斯く場面を私は忌避すべき鮮明な記憶として固着させていながらもどこか非現実的で奇異な出来事として胸底に残留している。
 顚末は同居離婚という些か奇特な家族形態の存続であった。その形式を維持したことで、両親の喧嘩は高校、大学時代に至るまで大同小異繰り返された。結句、意思欠格者たる私はますます小心翼々になった。反面、いつの間にかそんな自分を認めたくない別の人格が萌出していき、道化の自分を演じさせ、後に内実無き茫漠とした自信を強化させていくこととなる。反動形成に似た心理でもって、自分は精一杯の力で自我の城を建設した。それが砂上の楼閣であり、崩壊の序曲であったとは露知らずに…。
 ここまで読んできて、人は私を情けないと思うかもしれない。なんと卑屈で偏屈なことだと感じられるかもしれない。自分の至らなさは棚上げにして、環境のせいにしている私に嫌悪感を催すかもしれない。また、悲劇性に酔って自分を特別視しては同情でもしてもらいたい算段が垣間見られるとし、もはやうんざりしているであろうか。そういった感想を私は粛々とした思いを覚えながら想定している。予め推測しているのは、こうした意見は実際のところ頂門の一針であり、私自身、当初の決意とは裏腹にこんな愚にもつかないものを書き散らして一体何の意義があるのだろうと心底感じているからである。つまり、こんなことをしている意味も不明なら、この場でこうして書いていることに痛痒を禁じ得ない次第なのである。
「謗りを受けてまで、恥辱を甘受してまで何故書く?今でさえ限界に近い精神的逼迫を増幅させてまで何故書く?」
 私は撞着しながら記しているのである。
……
 かつて、父は沈鬱な面持ちで私に対峙しながら告げた。
「お前をそんな風にしてしまって悪かったな。」と。
 当時、私はこれを偽善だと感じた。この言葉が強すぎるとしたら「勝手な言い分だ」と、その時私は痛切に思った。この瞬間の、沸き上がる怒りと憎しみと悲しみの混じりあう、身体に癒合しては整合されない混沌としたぐちゃぐちゃの負の思念の如き感情の激烈さ。これは今こうして綴っていても恐らく事実から大きく逸脱する誇張表現ではないと思う。
 変わることのなかった日常、終わることのなかった争いは、どんなに私を苦しめ続けたであろうか。掴みあい罵りあう両親の横でどれ程私が戦々恐々しただろうか。そして、祖父母に嘆願しながらどれだけ私がこの家の静寂と平穏を切望していただろうか。
 父はそんな私の願いなど知る由も無く、切なる祈りを蹂躙し、あくまで暴君として鎮座し続けた。父が告白してきた時、以前とは違った変化をみせていてくれたなら思いも違ったのであろうが、そういう態度が一時の気まぐれに過ぎないなんてことは既にわかりすぎるほどわかっていた。事実、これまでもそんな態でもって言った後も父は相変わらず母と相対するとき、事務的な用件で話しをするとき等、往々にして喧嘩を繰り返していたからである。
 私の部屋のドアを開けたところの正面の壁に今は『アダムの創造』で塞いでいる穴が一つある。その穴は私の部屋の目の前で両親が取っ組み合いの喧嘩をしている時に、理性を失った私が殴打して穿ったものである。
 どうか想像してみてほしい。自分の親が自分の目の前で、つまり子供の眼の前で口喧嘩ではなく掴みあいの喧嘩をしている光景を。気位の高い母が泣きながらその爪でもって父の腕や肩をひっかき、そして服が使い物にならなくなるくらいまで取っ組み合っている姿を悲哀の眼差しで竦然と見つめるその張り裂けそうになる抑えようのない感情を。泣き叫び呪詛の言葉を吐きかけながら正にその場で容赦なく打擲され暴行されている自分の母親の姿を。その事実、その非現実感を。
この過去の出来事が決定的な意味を有しながら今に至って私を看過させず、苦しみに浸らせ必要欠くべからざるものとしてこうして綴らせるのは、これまでの辛く悲しい塗炭の苦しみに対する恨み故ではない。父や両親の問題それ自体はもう終わったことであり、現在私には怨恨などは無い。
 家族の名誉に関わる様な私的な領域に至るまで私が勝手に書き記さねばならなかったのは、小学校からの斯様な体験が私から、前述した自我の居城を建築させる淵源となったであろうからである。しかし、所詮は内実無き形骸の要害である。その城は至る所に罅のはいった脆くむなしい自信であり、それは時間によって風化され白蟻の如く蝕まれながら自我そのものを栄養分として成長し、過剰な意識、強迫観念(広く「意識」であり、神経)に変質していった。
 欠落者の私に顕らかな変化が生じたのは高校生の時分。意志を消失した私のがらんどうの心に「観念」が意識されはじめた。それは中学生の頃仮初めに生まれたものとは違い、はっきりとした輪郭をもちながら私の前にまるで以前とは異質な存在として屹立してきたのである。ここに於いて、身を守る筈であった自我は意識する観念の苗床であったことを明らかにする。寄る辺であり、自信の対象であったものは観念を育てる役割を担っていたに過ぎなかった。
 精神的な変調を過度に感じるようになった私はカウンセリングやロールシャッハーテストなど、自己の無意識を解き明かす精神療法等を受けるようになる。私は自分の変調を環境とは関係のない生来的な器質的要因に由来するものと曩時は結論付けていた由もあり歯牙にもかけなかったが、医者や臨床心理士は私の心理機制には、その起因として両親の不仲に基づく繰り返しの喧嘩に因る環境的影響があるという仮説をしていたと記憶している。そもそも、精神的不調自体一過性のものだろうと悲観もせず、別段深刻に考えていなかった。今でこそこうして重大な出来事として観念などというものを詳細に書き記してはいるものの、高校生の僕には観念なんかより、もっと具体的な悩みに四苦八苦していた。
 精神的変調は長く存続した。いつまでたっても治らない心の歪みに不安感を覚えていた父は、ある時診察に同行し、医師の度々同じように診断されたであろう所見をきき良心の呵責に襲われていたようであった。医師によって伝えられる「息子の変調には父への怯えがある」との見解が、父をして自責の念に駆らせていったのであろう。
 観念が胚胎した直接的エピソードはとある音楽家の死のドキュメンタリーを観たからだ。私は当時音楽活動をしていたので勿論この事件は驚天動地であった。偉大なアーティストの死は私に悲痛こそ与え無関心でなどいられない。
   しかし、私は心中で彼を嘲りあまつさえは痛罵さえしたのである。私はこの自己内部に発現する体内を蠢きながら巡っていく肉感的な不快さを、その気色悪さを今も絶えることなく意識過剰になる度感じ続けている。
   あれはただの観念の遊戯に過ぎなかったに違いない。何とはなしに真実思っていることと逆のことをふと考えてしまうという、あの遊び。いや、実際あれは遊戯そのものだった。私もそれは認めていた。しかし、一度植え付けられた邪悪な観念は、自分が事実どう感じているかということとは無関係に私の心を罪責感で侵食していった。
 観念はどんどん私の脳髄に浸潤しては私を拘束していく。拵えものの強迫観念は私を人形の様にしていった。そして私は観念の傀儡となる。それは哀れな自己欠落者である。観念の入れ子は私のささやかな人間的闊達さを封印した。自縛したその縄は、やがて茨の蔓となり私の身体から苦悶の血を飛び散らせる。
私は亡者。私の人生は観念と微少な情緒に彩られているに過ぎない。

私は恐れる。内心の呵責とその咎を。
私は私のこの体躯に寄生し私を嘲弄する「観念」に苦患する。
私は何者にもなれていない。信仰者にも無神論者にもなんにも。ただただ神を恐れ、神罰に慄き、罪の意識に神経症的な恐怖を抱き苦悶するだけの存在。それが私。