harustory’s diary

日々の思索、その物語

美しい人

「『私は美しい存在でなければならない。』 この妄念はずっと、今に至るまで終始私を苦しめつづけたわ。まるで自分の意思をこえた何か悪魔的な存在が常に私を駆り立て続けては私の精神を支配してしまっていたようだった。

 女学生時代だったかしら、私は自分が特別な存在だと思うようになったの。『白皙の美男』なんていうけれど、私は白皙の美少女だったわ。肌理の細かいあの肌。弾力があって光を反射して輝いているあの肌。肌だけじゃないわ。すっと整った鼻梁に滑らかな曲線を描く輪郭。くっきりとりりしく、黒目がちな双眸。豊かでつやつやとした髪。その髪が風になびいたときのなんともいえぬかぐわしいあの香り。ああ、私、自分でも毎日のようにうっとりとしていたわ。

 そう、私にとって特別な存在というのは容貌の美しさ、ただそれだけだったのよ。このときからね、私は、自分は特別に美しくなければならないと悟ったの。美しくありつづけなければならないってね。なぜなら、小説や活動写真のヒロインは私にとってみんなみんな外見の美しい存在であり、その「美しさ」ゆえにこそ彼女達の知性も苦悩も喜悦も悲哀も、人生における全てが特別なものたりえたから。高尚な苦悩は苦悩の高遠さゆえでなく、苦悩するものの美しさゆえに高尚であり、悲劇の悲劇たる所以も、その者の美しさに求められるのであって、美しくなければただ滑稽なだけであるか、いささかの憐憫をもって粉塵のように時の風に飛ばされてしまうの。ハムレットのオフィーリアの悲劇はとても美しいでしょう!あの水死しした彼女の有名な絵画を見たかしら。なんて豊麗で瑞々しく蠱惑的な死に様であることでしょう!何故だかわかるかしら。オフィーリアが美しき女性だったからよ!それにつきるわ。

 女性がどれ程に外見に命を、そうまさに命をかけるがごとき必死さで美を追求しているか、貴方達にはわからないでしょうね。まあ、無理もないわね。教えてあげる。美しいプロポーションを保つ為に節制は欠かせないわ。夜八時を過ぎたら決して食事を取らない。水分や塩分の摂取もナンセンスよ。朝鏡を見て顔がむくんだときのおぞましさは形容し難いほど嫌だから。週一回のパック。浴室では半身浴をして汗を出し毛穴を広げてから洗顔をするのよ。勿論、きめ細かい泡で優しく包むように洗うの。これは、この時代では珍しいことよね。そしてプラセンタとビタミンCローション含有化粧水の補給を肌にして、保湿液でしっとりと包んであげる。私は両親が皮膚科医だからこういうものを所持しているのだけれど、あまり聞きなれない言葉ですわね。あとコラーゲンの摂取も欠かせないわ。このときはビタミンCもどうじにとる必要があるの。補完しあうからね。部屋は湿度を保って乾燥しないように心掛けるわ。そして顔の筋肉を鍛えるの。

 髪の手入れも肌と同じくらい重要よ。平安女性は髪の美しさこそがその女性の外見的魅力を決定したのよ。毎日綺麗につげの櫛で梳かしてあげるの。私はね、朝朝起きると完璧に整えられた髪でなければ、たとえその日が大切な試験の日であろうと、また旅行の当日であろうと、どんなことがあったって門扉を開け一歩を踏み出していくことはできなかったわ。満足いく髪、納得いく容姿を自分に認めさせはじめて私の足は外に向かうことができるの。道中、私は自分の立ち振る舞いや白く透き通った肌、風に靡く髪をみているであろう周囲の私に対する畏怖と賞賛の混交した羨望の眼差しを妄想しては陶酔し悦に浸っていたわ。学校に着いても常に鏡で己の姿を確認しその美貌でもって自分を奮い立たせていたのよ。」

 

 僕達は彼女の長広舌をきいて一言も口を挟むことができなかった。彼女の口吻には執念というか、なにか鬼気迫るものがあり、僕達は圧倒されてしまっていたのだ。


 「いつからだっただろう。私は迫りくる恐ろしい予兆を感じ始めたわ。それは美の崩壊。そう、この決して訪れてはならないものを私はこの頃感じざるを得なくなったの。ああ、この絶望的な苦悶といったら。鏡をみようとするときのあの、胸が引き裂かれそうなほどの思い。

 私はね、三島由紀夫も私と同じ様なものを抱えていたのだと思うの。康成もそうかしらね。『眠れる美女』なんか夢中になって読んだものだわ。でも、今は三島の話をさせてね。彼もね、私は自分に迫ってくる美の崩壊というものを極度に恐れていたと思うの。恐怖し、周章狼狽していたと思う。彼はね、自分の中に、自分にとってのと言ったほうがいいかしら、絶対的な、それはつまり理想的な美の形象を見出していたわ。その絶対的美は彼にとって決して手の届かないものであり永遠の憧憬であった。『金閣寺』なんかは、私結局そういうことを言いたかったのだと思うの。あの作品はね、金閣寺という、絶対的な美に対する三島の倒錯した愛情が示されているのよ。何で破壊しなければならぬと思ったと思う?彼にとって金閣の美は絶対に掴むことが出来ないものだったからよ。自分とは凡そ懸隔した金閣の圧倒的美に畏敬の念を抱懐しつつも、その隔絶された不可侵な美が自分とは無縁に存在していることが苦痛で、また許せなかったの。この撞着の末にとうと、彼はこう思った。金閣を破壊すれば、美は絶対のもの、永遠なるものではなくなり、三島にとって自分の内に引き込むことが可能なものへと変容する。だからこそ、彼は空襲での破壊を願い、それが無理と知るや破壊衝動が芽生えたのよ。主人公溝口の内面は三島のそれが投影されたものなの。小林秀雄は知っているでしょう。彼はね、この小説は小説でなくコンフェッション、つまり告白であるといったわ。そうよ、これは告白なのよ、まさしく。三島の美への思いを吐露した告白文。それが『金閣寺』なの。

 私は感動して涙が止まらなかったわ。美が崩壊していくことを耐えがたき懊悩と感ずるのは、自らの内に理想としての美というものが確固として存在しているからなのよ!これは偶像崇拝よ。そして、その偶像をただ崇めるのみならず、自分もその一部たらんと志しながらも、もはや自分がそこから不可避的に、酒用のない自然の摂理の力によっては離れてしまったのだと確信するとき(そう、確信なの!)己の奥底で何かが瓦解し破壊的衝動が生まれるのを意識するのよ。

 結局私が言いたいことはね、顔こそが全てということよ!そう、顔が全てなのよっ!顔さえよかったなら他のどんな辛い事だって私はきっと耐えることができるわ。もし、顔に大やけどをして醜いケロイドが私の外貌を覆ったとしたら、私はそんな自分のままで人に優しくすることなんて決してできないわ!私はそんな人間じゃないっ!

 貴方達、醜形恐怖症って病気知ってる?精神疾患の一種なのだけれど、これは自分の顔が醜くて醜くてどうしようもないって思い続けてしまうものなの。私は親が医師だから質問したことがあるのだけれど、お父さんの仲間の精神科医によれば、醜形恐怖症って、多くの患者は客観的にみてわりと綺麗な顔立ちをしているんだって。だから、人から容姿について褒められたりすることもあったりするのよ。でもね、本人達はそんな周りの声は全然役に立たないらしい。本人達の主観にとっては、あまりに自分が醜いと思い込んでしまっているから。これも悲惨な話よね。

 まあ、これはいいとして、この醜形恐怖症だけれども、私はこの病気には二種類あると勝手に考えているの。一つは今言ったように、自分が醜いと確信、盲信してしまってそのことを絶望的なまでに悲観し、そんな状態が恒常的に存続していく強迫的な観念の病理。もう一つ、これは私の私見にすぎないけれど、現時点に於いて醜いと思ってしまう状態にあるのではなく、いずれ醜くなってしまうであろうことへの尋常ならざる恐怖。そして、その兆候を現在の顔に見出してしまうことの懊悩。強迫性障害でいうところの予期不安ってやつね。尤も醜形恐怖症も強迫性障害に含まれるのだけれどね。

 この私が考える後者のケースはちょっと特殊でね、自分がとても美しいと感じるときも多ければ、その予兆も含め醜いと感じるときもあるの。このタイプの人達は現在まだ満足できる容姿を保持できているという事実を励みにして一日一日を生きている人達だと思うわ。こういう人達は苦悩者には違いないけれど、ナルシスティックな苦悩者とも言えるわね。

 私は脆い人間よ。この脆さはとても微妙で、表面的なところで自信と連結されているの。そしてそれは些細な揺らぎで行ったり来たりする。この表面、いまさら表面なんて表現もおかしいわね、外見、これが崩れたとき私の内面が空洞であったならば、私はきっと発狂して死ぬわ。

 確かに、この死は情けないとの謗りを受けるかもしれない。私も惨めで恥辱であると思っているわよ。できうるならば、そのような見苦しく醜悪な死を私は自分自身に許したくはないと思っている。

 ならば、そんな醜態を晒す前に私は自害すればいいのではないかとも考えたわ。表面、外見が崩れないうちにね。でも、それは私自身が未来の愚劣なる死に恐々とする為に今死ぬことを正当化しているという正にその点に於いてやはり愚劣なのよ。浅ましく、汚らわしいのよ。

 では、どうすればよいのか。外見が崩れないことか、乃至は外見が崩れても内部が空洞化されていないこと、これしかないのだと思う。

私はまだ、容貌が見るに耐えぬほど崩れ始めても理性を保てるほどに気が充溢していないわ。そして、美こそ全てと考える私にとって内部を充実させる、内部に相応の価値を置く自信もまたないの

摂食障害スペクトラムにみる強迫念慮機序

摂食障害はかなり辛い精神疾患です。

この疾患はOCD spectrumであるBDDの要素がありまし。それは'思い込み"の心理。

例えば拒食症のケースでは、周囲が当人に、「あなたは痩せすぎで病的でさえある」と諫めても、当人は納得できません。

「私の苦悩は誰もわかってくれない」家族友人等の説得が、このように、当人を逆に刺激してしまう場合もあります。急性うつ病患者に対する「頑張れっ!」みたいなものです。

当人の思い込みはそれほどに強烈であり、その固着された強迫観念を引き剥がすのは容易ならぬ場合が多いです。

更に、痩せていく過程で、その痩身に陶酔していくのも危うい心理です。

ブログ等で拒食症患者と思われる方が、揚々と自らの体躯を載せていたりします。喫驚する周囲はその痩せ細った身体に対して健康的な美、健康的な痩身を指摘したりします。しかし、あれは本人のなかでは"自慢の身体"なのです。「健康的」という概念の倒錯がそこに生じてしまっているのです。

加えて、「これは自慢の、健康的で、美しいボディであらねばならない!」と執着する心理があります。壮絶な格闘によって艱難辛苦の果てに手に入れたその身体は当人において美しくなければならないのです。(それが認知の歪みであると理性では知悉している事例もあります。)

従って、このケースではコンプレックス自体は既に解消されていると思われるかもしれませんが、違います。ここには「もっともっと、もっともっともっと美しくっ‼︎」という心理が働き、やはり、より心配の極地にある周囲の意見に首肯できない自分を認めるのです。苦労して手に入れた身体を元に戻す行為は自己否定に繋がる、そんな機制もここには存しているでしょう。「もっと痩せなければならない!もっと綺麗にならなければならない!でないと私は醜いままだ!それは破滅だっ‼︎」そうした思い込みは、やがて、「この身体が最も美しいんだ」という強迫観念に変容するのです。

極度に痩せ細ってしまえば当然身体上の異変が起きる危険性があります。重大な健康被害の懸念があるわけですから、そのままにしておくわけにはなりません。その思い込み、認知の歪みを治療していく必要があります。

しかし、この「思い込み」の矯正、偏った認知を治すのは容易ならぬことです。当人が感じる思い込みの真実を、他者が同じように推し量ることは困難と私はあえて断言しましょう。

専門家は、自らが同様の体験はしていないかもしれませんが、知識と経験があります。その意味で、専門家に頼るのはやはり得策です。だが、専門家、最低でも精神保健指定医精神科医であっても、精神療法のみでの寛解が難儀であることもまた事実と言えましょう。服薬の是非が、特にSSRIにおけるヒーリーの論文以降目立つようになりましたが、薬物療法の否定は非常に危険であると私は考えています。

或る慶應義塾大学文学部志望者との断章

山積されたTwitter前垢のDM中の言葉も、その一部はアカウント削除プログラムの慈悲であるかのように、残存している。無論血の通っていない文字の羅列ではない。こうして書きながら、自分で自分の、死んだと思っていた思念を圧迫し、その拍動の自律を確かめているんだ。


タイムオーバーになってしまう原因が設問二にあるならば、設問二は自分の得意な分野に多少強引にでも引き込むと論じやすいかもしれません。

例えば、昨年はテーマとしては文化相対主義で、「トングウェ人の生き方→近代主義と対立した生き方→ポストモダン

みたいな感じで、"文化相対主義"というテーマを"近代主義を乗り越える"、つまり近代のテーマに引き込むのです。


そんな感じで設問二の論述は自分の得意分野と課題文を関連させ、引き込むテクニックなどはよいです。


それ以上に大切なのが設問一の要約問題ですが、これは読解力、表現力がかなり高度な次元で試されるので簡単にはアドバイスが出来ません。小論文参考書等で要約のテクニックは知識として把握していると思いますから、今の時期はもう、赤本の模範解答なりをみて、自分の要約と模範解答とのズレはどこかを確認し、次に実践する際はタイムオーバーにならないよう、"筆者の要点をどう抽象化すればよいのか"に留意し、迅速に処理するクセをつけていく必要があります。勿論、問題文の重要箇所にはマーキングしておくとよいです。


英語は論述で合否が決まると言ってもよいほどに大切なので、小論文設問一のようなストラテジーで対処する必要があります。設問文は必ずしっかり、入念に読み、出題者の意図を確認しましょう。


日本史は文化史が頻出なので一問一答などで確認し、差がつく大問4.5の資料問題や論述問題でわからなくて書けない、資料が読み取れない、という事のないようにする必要があります。

月並みなアドバイスかもしれませんが、少しでも参考になれば幸いです。

RPG理論

知識が不足していても英語や古文、現代文などの文章読解は継続しなければなりません。

よく、「完璧に知識を理解した上で〜」という声を耳にしますが、これは絶対にいけません。知識の上限を決める基準がないからです。東大に受かる人も知識が万全で十全な状態で受けるわけではありません。だからこそ、合格最低点は6割ラインなわけです。

つまり、"演習をしながら、並行して知識本や参考書などで学力を拡充していく"のです。これを僕はRPG理論と呼んでいます。RPGをする際、取説を熟読し、完全に理解(input)してから実際にゲーム(演習)をする人はほぼいないと思います。ゲームをするなかで操作などがわからなくなれば、その都度、取説で確認する作業をするのが常道でしょう。

学習もほぼ同じで、知識→演習ではなく知識⇄演習、なのです。

ですので、例えば英語であれば、単語や文法の知識が不足していても、演習はとにかく一義的なものとしてやっていかなければなりません。

山口達也事件について

TOKIO4人による謝罪会見を観た。不謹慎と誹られるかもしれないが、最初に湧出した感情は「感動」であった。何に感じて心動かされたのか。端的に言えば、メンバー4人が心底から謝罪の意を示しているその誠実さ、その姿勢、その本気である。特に松岡昌宏氏の言葉は壮絶であった。切腹前の武士のような凄み、凄絶で壮烈な魂の咆哮であった。

あの会見を観た者の一体誰がTOKIO4人を断罪できるであろうか。腐敗し尽くした感のある権力者達の忖度に忖度を糊塗した、おぞましく、醜悪で見るに耐えない、瞋恚の念を齎す以外の他何らの意義も見出せない、空虚な会見という名な茶番劇をさんざん見せつけられてきた僕達にとって、TOKIOの真摯な姿は正に感動であり、人間的な美しさを象徴するものであった。少なくとも、僕自身はそう感じている。

山口達也が犯した罪は小さくない。「小さくない」と濁した表現をしているのは僕等にはどうしても事件の全容が知り得ないからである。どんな事件にも背景が、そうなるに至った文脈がある。物語は文脈においてある種のテーマ性を内包したものとして形象される。それは現実でも同様である。否、「事実は小説よりも奇なり」ではないが、弁護士の兄をもつ僕は、事件がとてつもなく複雑なコンテクストの中で縒り合わせられていく事を知悉している。生々しいリアルを実感している。

これは被害者を貶め、山口達也を擁護するものではない。その様な単純で軽々な判断が許されないというわけである。僕等が信憑性ある情報として知っているのは、彼が「未成年を自宅に呼び、無理やりキスをした。」というものだけである。これをもって僕は罪は小さくはない、と解釈しているのである。それ以上はわからない物語。真実は、起訴猶予となった以上、当事者と神のみぞ知る。どの様な感情で被害者が彼の自宅に行ったのか?その行動は全く責められるべきものではないのか?山口達也は本当にキスをしただけなのか。暴言は?乱暴行為は?そうしたディテールを排し、一元的に一刀両断する審判者は傲慢の誹りを免れないであろう。汝自身を知れ、である。


ところで、TOKIO4人があれほどの会見をするに至り、山口達也が描いていた未来を剥奪される程に未成年という存在は、ただ未成年であるという事実だけで社会から圧倒的なまでに庇護されている。最も顕著な例は少年犯罪である事に異論はないだろう。市民感情として到底許すべからざる残虐な犯罪(無論殺人も含まれている。)をしても、彼等彼女等は、「未成年」という金科玉条の掟により、年齢上の差異はあるが、罰の執行が主体的に為されるのでは無く「更生」という教育を施される。社会通念とどれ程に懸隔していたとしても未成年にはまず罰より教育ありきなのである。

山口達也強制わいせつ事件において、未成年は確かに被害者である。しかし、未成年である被害者は自分の存在が社会に与える甚大な影響に自覚的であらねばならないと思う。それでこそ、山口達也TOKIO4人も救われるし、被害者自身も人格的に成長されて行く。何故か。未成年という存在はいつの時代であっても社会を、未来を担っていかなければならない責任を必然的に帯びた存在だからである。未来、社会の繁栄と世界全体の調和的共生は、常に未成年が成長していく過程において先を行く者から託されていくからだ。受け継ぎ、更新していく道程が種としての人間が築くべき歴史であるからだ。

この希望があればこそ、未成年は社会からその立場のゆるやかなる事を全的に許容されている。そのゆるやかさに無自覚であってはならない。未成年は未成年としての自覚を持ち生きていかなければならない。たとえそこに拭難き苦悩があっても、僕は未成年には希望と使命感を抱懐してこの社会を生き抜いていってほしい。

孤愁

  夕刻。逢う魔が時などと言うが、僕は夕暮れのなんともいえない色彩が好きだった。殊、晩秋から冬にかけて、沈みゆく西陽とともに暗闇が空を鈍色に染めゆく、あの空の感じに陶然とした倒錯的寂寥を覚える。それは確かに寂しさの同化なのであるが、彼をしてうっとりと酔わせるのである。魔がいるとするなら、この色と気配ではないだろうかと僕はいつも感じる。
 ふと、どこかの商店が活気に満ちた声でもって初秋の空気を裂いていた。僕ははっとして街を眺めた。街は多彩なの顔に満ちていた。僕はこの時まで、今が正にそういう時節なのだと気が付かなかった。正確には、まるで実感を持つことがなかった。そうして、僕はこの賑わいに自分独り取り残されているような感覚を覚えた。
 書店に着いた。彼の目的は本を物色することであった。
 ところで、人は苦悩し続けられる存在であろうか。僕は最早癖になりつつある観念に耽けた。人は、苦悩し続けられる程には強く創られてはいないのではないか。耐え難き憂苦に苛まれていても、そこにはどうしたって苦しみが途切れる間隙がある。その隙間に煩悩が入り込むんだ。涅槃を志す者は、その空白を修行をもって払拭しようとするわけであるが、俗世の人間にとってその空白は無聊となる。   

   退屈はそして苦患へと変質する。だから、あたかも苦しみが際限なく連続しているように感じられるのである。暇という名の苦しみは、当座自分を悩ませているものとは切り離されており、全体との連関をもたない。容易に解消可能であるし、解消すべきであろうとする。それは、飲食であったり、遊興であったり、はたまた芸術や読書であったりする。

 大学の帰りに立ち寄る馴染みの本屋に入れば僕のルートは既に決まっている。入り口正面に平積みされている文庫とハードカバー類の書をチェックしてから、そのまま真っ直ぐ、右手に文庫コーナー、左手に新刊本や雑誌が並べられている道を進む。そうして、文学や哲学なんかの思想書が陳列されている一角へと移動する。
    出し抜けに違和感を覚えた。
 ところで、僕にとって思想書は幼少期から非常に馴染み深いものであり、必然、僕の人格形成に大きく影響したものである。しかし今、僕は文学や哲学といった思索の豊饒の海にこの身を浸すことを自身に肯んじることが出来なかった。「拒否しろ拒否しろ拒否しろ拒否しろ!」そんな心の叫びが脳髄に反響して僕に疼痛を与えていた。
 この体験は僕を愕然とさせた。これは決して「今はそういう気分ではない」といった種のものではなく、「失ってはならない何か大切なものを喪失してしまったのではないか」、そんな感傷を付与させる事件であったのである。

  くだらない…。何もかもくだらない。虚しい。虚無はリフレインとなって僕に反響し続けている。

一年でゼロから早慶ダブル合格した高校教師の言

本日から、このブログにおいても学習(主に大学受験)についての内容も綴っていきたいと思う。その場合、タイトルにも表れているか、説得力を持たす為に自慢めいた表記をするケースも少なからずあることを先にことわっておく。


まず、下の画像を見てもらいたい。f:id:haruharu1103:20180829090654p:plainf:id:haruharu1103:20180829090720p:plain

これは早慶の志願者と合格者である。言うまでもなく、ごく一握りしか受からない。(慶應義塾大学は文系学部にすべて本格的な論述試験を課し、また実質的に二段階選抜方式を採用している(そうしないと論述試験を採点する時間が割けない。)ので、母集団のレベルは早稲田大学より高い。)

にもかかわらず、早稲田などのマンモス大学では合格者の数もまた多い為、さらには、今は情報が氾濫しているが為、からいかにも周囲が合格者だらけのように「錯覚」してしまう。無論それは錯覚である。


「そんな事は鹿爪らしくお前に指摘されるまでもない!言うまでもない事だ。それよりもお前は何が言いたいのだ。」

諸君はそう思うであろう。しかし、この、ともすれば忘れられがちな明々白々な事実を冒頭に述べておく事を僕は余計だとは思わない。以下、その理由について述べていく。

また少しだけ前置きをするが、これは塾や予備校(以下、「予備校」と表記する。)への非難でもなければ、そこに従事している諸先生方への敬意を欠いたものでもない。あくまで、僕の経験に起因する私見に過ぎない。胡乱な戯言と感じられる方々も多いであろう事を、僕は重々承知している。


これまで何度となくTwitterにて綴ってきたが、基本的に自分は参考書至上主義である。基本的、と付したのは西きょうじ先生の英作文は有益であったのと、参考書至上主義を前提とし、それを基軸とした授業のあり方を僕自身が模索し実践しようとしているからである。

世間的には自分は少数派だと思う。統計をとったわけではないが、進学校である勤務校の状況から推論的に帰納すると、7割くらいの方が予備校を利用しているのではないだろうか。実際、自分も予備校の自習室は多いに利用した1人である。

自分について言えば、予備校の自習室を利用する目的で代ゼミの単科講座を曜日がばらけるように取った。「取った以上、授業くらいはでるか。」と最初こそ思ったがすぐに受講をやめた。"講義をきいていたら落ちる!"そんな"危機感"を覚えたからだ。理由は「遅い。」これだけである。自分でやった方が最低20倍ははやく、また効率的にできると確信したのだ。

講座のレベルが低かったわけではない。代ゼミの英語で最もスピードが速いと言われる人気講師のハイレベル読解などである。それでも全然遅いのである。

僕が特別に利発だったわけでもないであろう。自分は冗談抜きでゼロからスタートやりはじめたのだから。(英語は速読英単語入門編から始めた。)


繰り返すが、僕は予備校を否定したいのではない。「塾や予備校の講座を受講するという行為に潜む"心理"に特段の注意をするべきである」というのが眼目である。

"心理"とは何か?それは、「正常化バイアス」である。これから二学期がはじまる。もう講座(単科)を締め切っている予備校も多いであろう。予備校、特に大手のそれには「必勝!早稲田大学特講‼︎」「ハイレベル慶應英語!」「徹底解析、慶應小論文!未知から既知へ。」「知の泉。早稲田現代文必勝ストラテジー」「スペシャル東大英語」「徹底解析、最難関大学古文」などなど、受験生の焦りや願望を刺激する魅力的な講座名がズラリと並んでいるだろう。カリキュラムか予備校で設定されておらず、受講したければ好きな講座を好きなだけ受講できる単科ゼミを取ろうとする受験生であれば、どれを取ろうか目を輝かせているかもしれない。そしてきっと、金銭が許すかぎり、できるだけ沢山受講したいと思う者も少なくないであろう。

ここに先の正常化バイアスがはたらく。沢山とることではない。繰り返すが、かかる魅惑的な講座を取るという「行為そのもの」である。

こうした講座を取る。すると、受験生心理としてはなんだか早稲田、慶應が近づいた"ような"気持ちになる。安くないお金をだし、授業を受けるにあたっては、予習をし、一流と喧伝されている講義を傾聴し、その後はしっかり復習するのだから当然の心理であろうという反駁があるかもしれない。

しかし、僕は、僕はだが、これは非常に危ういと考えている。Twitterでも再三再四述べてきたが、合理的学習を確立した自習者には絶対に!かなわないと確信しているからである。どうしたって早さ段違いだから。

「しかし、早慶クラスなら。」また半畳を入れたくなるかもしれない。だが、自分も高校教師ゆえわかるが、集団授業では早慶だろうと東大だろうと、下、つまり基礎を前提として講義せざるを得ない。何故なら、上、つまり応用を前提した座学などは不可能だから。それは各人がアウトプットしていかなければならぬフェーズだから。


なんであれ、講座を取る場合、ま目的と手段を間違えてはならない。間違えるわけないと思いながら間違えてしまう陥穽に非常に多くのものがはまっている。予習傾聴復習のサイクルで学習に満足してしまうからだ。なまじこのサイクルが大変なだけに厄介である。しかし、どんなに大変でも予備校生は、自学を一義、講義を副次と認識しなければ合格はあり得ないと僕は思っている。比率で言えば、予備校生"だからこそ"自学が7、講義が3くらいである必要があると考えている。自学の方が圧倒的に早いのであるから、実は予備校生は自学生より多くの学習時間を確保する必要があるという次第である。

冒頭に添付した数字が現実を突きつけているように、A.B.C.D.E.F.G…数えきれぬ程の予備校があり、非常に多くの受験生がそれら予備校に通っているであろうが、早稲田、慶應(に限定する必要もないが周囲に早慶志願者が多いので。)に合格できる人数はこれしかいないのである。A.B.C.D.E.F.G…etcの予備校がそれぞれ「必勝!早慶完全攻略への道!」を高らかに標榜していても。